傷つきやすい性格を直したい人への改善策について

誹謗中傷

僕は元来、些細な事でも傷つきやすい性格です。

そのため、リアルな人間関係が苦手で、人付き合いを避けてきました。

その逃げ場として利用したSNSでも悪口を言わて傷つき、結局やめました。

 

そんな行き場のない悲しみや不安に、一生付き合わなければならないのでしょうか?

しかし、そんな風に悩み続ける事に嫌気がさし、考え続けた結果、今では改善する事が出来ました。

その過程について、今回はお話していきたいと思います

 

原因:他人の言動に振り回される

僕に限らず傷つきやすい人は「他人の言動に振り回されやすい」という大きな特徴があります。

とにかく「他人の視線」が気になり「良い人と思われたい」とか「悪い人と思われたくない」という気持ちが強いのです。

そのため他人からの悪口に対し、非常に敏感なります。

もし少しでも悪く思われてしまえば、自分の身が脅やかされると感じるからです。

 

そこで身を守るために、自分を正当化して「攻撃的」になったり「言い訳」を始めるのです。

そして「悪いのは相手だ!」「自分は悪くない!」という周囲からの同意を求めるようになるのです。

 

誤った解決策①:他人からの肯定を得ようとする

傷つきやすい人は、他人からの肯定を求めがちです。

「あなたは悪くないよ。悪いのは相手だよ。」という優しい言葉が、最も欲しいセリフなのでしょう。

 

しかしそんな風に「周囲からの同意を得ようとする」というのは、残念ながら根本的な解決策にはなりません。

 

確かに、味方から肯定されれば、多少の安心感を得ることは出来ます。

しかし、それはいわば、ドラえもんに泣きつくのび太のようなものです。

自分の問題なのに、他人から解決してもらおうと考えている時点で、何も変わらないのです。

 

そもそも他人というのは気まぐれであり、言うこともコロコロ変わるものです。

なので、必ずしも他人が同意してくれるわけでもないのです。

もし、同意が貰えない場合や、欲しい言葉が得られない時は、より傷つくことになるでしょう。

つまり、同意を得ようと必死になっている時点で、他人に振り回されていること同じなのです。

 

よって、他人の言動に振り回されている限り、根本的な解決にならないのです。

 

誤った解決策②:自分が優位に立つ

他人からの同意が得られずとも「自分が優位に立つ」という方法もあります。

例えば、自分の方がいかに優れているか誇示したり、相手がどれだけ卑しいかを指摘することで、保身を図るのです。

あるいは、これまでの実績や経験などを武器に、相手を攻撃することも出来るでしょう。

 

しかし、攻撃的になったところで、「他人の視線が気になって仕方がない」ことには変わりません。

そもそも、他人の視線が気になるからこそ、必死になって自己防衛をしているわけですからね。

一応、他人を攻撃することでスッキリはするかもしれませんが、それはあくまで一時的なものです。

 

それに、自分が優位になろうとしたところで、それはただの虚勢でしかないため、長続きしません。

少しでも弱点を突かれれば、再び自己防衛に躍起になる事でしょうから。

よって、他人との優劣をつけている時点では、解決とは程遠いものなのです。

 

誤った解決策③:他人を遠ざけてしまう

他人を攻撃するのではなく、いっそのこと他人を遠ざけることで、自分を守ろうとするという方法もあります。

しかし、それもまた解決策とは言えません。

 

人生を全うするためには、他人との関りは避けては通れないからです。

確かに「関わってはいけない人」というのは存在します。

暴力やパワハラやモラハラをするような危険な人間に対しては、然るべき対応が必要です。

 

しかし、他人から逃げてばかりでは、仕事をすることも困難となるのです。

今、手元にお金やモノがあるという事は、それこそ「人との繋がり」によって得られたものに他ならないのですから。

 

もし1人でできる仕事があったとしても、今度は「1人でいる事の寂しさ」に苛まれる事でしょう。

 

もちろん「悪口を言われるくらいなら、寂しくても良い」というのならば問題ありません。

「本来、人間とは孤独な生き物」などと意味ありげに言われればそれまでですからね。

 

しかし、それでも結局「自分が傷ついている事」には他ならないのです。

「本当は仲良くしたいけど、傷つくから出来ない」などと悩むこと自体、十分傷ついているのです。

(アニメのエヴァンゲリオンにもあった「ヤマアラシのジレンマ」というやつですね。)

 

また、他人を遠ざけることによって「自分は他人と関わる能力がないコミュ障なんだ…」などと自信喪失になるという、本末転倒な事態にもなりかねません。

 

つまり、他人から逃げて自分の身を守る方法を取っても、それはそれで傷つくのです。

よって、これもまた根本的な解決策にはなり得ないのです。

 

傷つきやすい人の真の原因について

そうして考えていくと、傷つきやすい人の本当の原因が見えてきます。

それは、常に「自分ありき」ではなく「他人ありき」で物事を考えてしまっている事です。

 

「自分よりも他人が優先」という考えだからこそ、他人の言う事が気になり、神経を使って疲れるのです。

 

そして、これほどまでに「他人」に気を遣っているのに、必ずしも報われるわけではありません。

それどころか、いわれのない悪口を言われてしまうことさえあるのです。

そんな理不尽な目に遭う事で、憤ったり傷ついてしまうのは当然と言えます。

 

すると今度は「悪口を言われてしまう原因」を掘り下げて、防衛やら攻撃やらしないと気が済まないというわけです。

 

そんな生き方をしているのは、お世辞にも全然楽しいとか幸せだとは思えません。

そして、それを自覚して改めない限り「傷つきやすい」という性質は変えることは出来ないのです。

傷つきにくくなる方法

よって、傷つきにくくなるためには、「自分ありき」で物事を考えることがベストと言えます。

 

そもそも、自分は「他人のため」に生まれたのかといえば、そんな事はないでしょう。

他人のために奉仕する事が義務付けられているわけでもありません。

 

それなのに、他人の作った価値観や考え方や生き方を気にして、自分が合わせる理由はあるのでしょうか?

たとえ悪口を言われたところで「相手がそう思っているだけ」であり、それが全てであるわけがありません。

それをあたかも「自分の価値や評価が決められてしまった」などと考えるのは大げさな話です。

 

他人ではなく、自分の価値は、自分で決めることが出来ます。

そして、自分の事を自分で認めていれば、他人からどう言われようが気にする必要はなくなるのです。

 

しかし、それが簡単に出来ないからこその悩みなので、さらに深堀していきます。

深堀り①:なぜ自分の価値を認められないのか?

「自分ありき」であるためには、自分の価値を認めることが必要です。

では、なぜ自分の価値を認めることが出来ないのか?

考えられる理由は1つ。

現実の自分を受け入れることが出来ていないから」です。

 

例えば、この世の中は「自分より優位の人たち」で溢れかえっていると思います。

お金持ち、高学歴、エリート、著名、交友関係や人脈が広い、異性にもてる、容姿端麗、高い地位、スポーツ万能などなど…。

それに比べて自分の学歴や収入、能力や地位や権力は、ほんの僅かなものだったりします。

 

そんな現実を見て、惨めな思いをすることもあるでしょう。

つまり、「惨めな自分を認める」という事が難しいからこそ、自分の価値が認められないと言えるのです。

 

その結果「自分には〇〇が足りないから、他人から指摘されても仕方ない。」といった風に、「他人からの評価を正当化」してしまうのです。

 

その一方で、プライドだけはあるので、惨めなままではいたくないとも考えます。

そのために他人を貶めるか、「他人から認められる」ことで救われたいと願っているのです。

 

そして、自分は評価に値する人間だと、みんなに分かってもらいたいのです。

だからこそ、自分の惨めな部分を隠したり、偽ってでも善人であろうとするわけです。

 

深堀り②:自分に嘘を吐く事

しかし、自分を認めないという事は「自分に嘘を吐いている」事でもあります。

認めたくない自分から逃げる一方で、「他人からよく思われたい」という思考は虚栄でしかないからです。

それを嘘吐きと言わず、なんというのでしょうか?

 

もちろん、他人に対して嘘を吐くなとは言いませんし、それは不可能です。

しかし、自分の気持ちに対して嘘を吐いてしまうと、なおさら「自分の価値」は低くなっていきます

なぜなら、自分自身を信用できなくなるのですから。

嘘を吐く人と正直な人、どちらの方が信頼に値するかは明白です。

 

もし自分で自分を信頼できなければ、やはり「他人ありき」という道が待っている事でしょう。

自分を信頼の拠り所に出来ないならば、他人に依存するしかないのです。

 

しかし「自分に正直」であった方が、自分の事を信頼できるようになるのです。

 

嘘つきは信用されませんが、正直というのは、それだけで信頼に値するのです。

なので、自分の価値を認めようとするならば「嘘つき」ではなく「正直者」になる事が正攻法といえるでしょう。

 

そして、自分に正直になって、現状を直視することが、自分の価値を認めることに繋がるのです。

 

深堀③:自分に正直であるためには?

しかし、自分に対して正直であることも、そう簡単な事ではありません。

なぜなら「自分に向き合う事」が必要だからです。

先ほども言ったように「惨めな自分」というのは、認めがたいものです。

例えば自分の嫌な面、嫌な体験、足りない能力、悩み、後悔、恥じらい、陰湿さ、残酷さ、裏切り、性癖、罪、隠したい事などなど…。

「直視したくない事」は多少なりともあると思います。

 

そういう「見たくない自分」と向き合うことが出来る人は、実はあまりいないのかもしれません。

そもそも、向き合う事は強制ではないですし、偽ったり隠したりするほうが、ある意味では楽な生き方だからです。

だからこそ、安易な「他人ありきの道」に進むのでしょうが、それが「負の道」である事は散々お伝えしたつもりです。

 

僕の場合は、他人に振り回される自分が嫌になり、本当はどうなりたいのかを考えたのです。

そのため、今まで自分で隠してきた事をどんどん紙に書き出してきました。

嘘偽りなく、自分の心の声や思考に、ひたすら耳を傾けたのです。

その際、苦痛や思い出したくない過去まで書くのは、正直勇気が必要であり、恐怖も感じました。

ただ、そうやって自分の事を文字として記すことで、徐々に冷静になり、文字通り「直視」出来るようになったのです。

自分では重大だと思っていた悩みも、書いてみれば「そんなことで悩んでいたのか」という風に至ったのです。

 

たしかに、他人と比べれば僕は惨めかもしれません。

けれど、僕はそういう現状を気に入っているのです。

たとえ色んな事が足りなくても、もがいて悩んで進んでいくしかありません。

僕はそれを楽しいと思っているし、死ぬまで自分でいたいと思っているのです。

そして、それこそが「自分ありき」の生き方であることが分かったのです。

 

僕が自分に正直になった結果

さて、僕が自分ありきの人生だと思えるようになってから、1つ手に入れたものもあります。

それは他でもない「自信」でした。

それは、僕がこれまで欲しくて欲しくてたまらなかったものでした。

 

僕は以前までは他人の視線を気にして、どう思われるか怯えまくっていました。

ここまで色々書きましたが、何より僕こそが他人に依存しまくった張本人なのです。

 

しかし、今思えばそんな他人なんてそもそも「信用に値しない」事が分かるようになりました。

そんな人たちよりも、「正直な自分の方が遥に信頼に値する事」に気づいたからです。

 

これまで気にしていた他人の評価は、全く当てになることなんて、ありませんでした。

評価なんていうものは、人によって異なるし、なんなら朝令暮改なんていうのも当たり前です。

そんな意味不明な評価に振り回されていたら、自分が何のために生きているかわかりません。

 

そうではなく、最初から自分が自分のことを評価していれば、それで十分だったのです。

 

自信のない人たち

周囲を見渡してみると、かつての僕のように自信のなさそうな人は多少なりともいるでしょう。

例えば、誹謗中傷をするような攻撃的な人間もまた、「自信がない人たち」でしかないのです。

僕はこれまで、そういう暴言を吐く人間に恐怖を感じていました。

 

しかし、今思えばそれは張子の虎でしかなかったのです。

結局、暴言を吐く人間というのは、他人の評価を恐れるあまり、虚勢を張っているにすぎないのです。

そう考えると、全く怖くなく、取るに足らない存在であることに気づいたのです。

 

信頼関係で結べる人たち

更に踏み込んで、僕は他人との付き合い方も考え直せるようになりました。

例えば、仕事では「利害関係」や「協力関係」であり、友好目的なら「信頼関係」が重要になるという事です。

利害関係であれば、害よりも利の方が大きければ、どんなに嫌いな人間でも「仕方がない」と割り切れます。

一方、「信頼関係」で築いた相手と一緒にいる時間は、とても居心地がいいものです。

 

その関係を築くためにも、「相手がどの程度正直なのか」というのは一つの指標になります。

僕が今後付き合いたいと思うのは、やはり自分に対し正直でいようとする人たちなのです。

 

もちろん、そのせいで傷つけあう事もありますが「後で絶対に修復できる」という自信もあるのです。

 

大抵はノイズか落書き

最後になりますが、相手が価値観を押し付けてきても、それに服従する必要はありません。

そればかりか、いちいち反応する事さえ無駄なのです。

 

なぜなら、他人の発信の大半はノイズや落書きでしかないからです。

 

それらの発信に対し「自分にとって価値がある!」と個々人が勝手に反応したり、解釈しているだけなのです。

この文章もそうであり、勝手に僕が公開し、勝手に読まれるというものとなっています。

ただ、添えに対しどんな評価や価値を持たれようが、僕にとってはあまり意味がありませんが。

 

というわけで、今回のお話は以上になります。