松本大洋先生によって描かれた名作漫画「ピンポン」。
僕は小学生の時に見た映画によって、この作品を知りました。
その後、湯浅政明監督によってアニメ化されたのは、それから約十年後。
僕の大好きな監督の作品でもあるため、何度も繰り返して視聴をしました。
そして、現在30歳手前でようやく原作を買い、読むに至りました。
どんな媒体であっても非常に面白く、大好きな作品です。
特に素晴らしいと思ったところは、「才能」「努力」というテーマが非常に現実的に描かれているところです。
例えば、世間一般では「無駄な努力はない!」とか「才能は必要ない!」といわれたりします。
その一方で、「才能がなければダメ」とか「報われない努力」とも言われることがあります。
けれど、結局のところ努力や才能って何なのでしょうか?
その答えについて僕も常々考えていましたが、「ピンポン」の中にそのヒントがたくさん見受けられました。
というわけで、今回はピンポンに登場するキャラクターたちの「努力」と「才能」を見ながら、その在り方を考察していきたいと思います。
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努力と方向性と結果について
この漫画では主に5人の主要人物が登場します。
スマイル、ペコ、ドラゴン、チャイナ、アクマです。
彼らにとっての「才能」や「努力」とは何なのか、1人ずつ見ていきたいと思います。
※ちなみに、作品の内容を知っている方を前提に書いていますので、あらかじめご了承ください。
スマイルについて
スマイルはペコと同じく、卓球の才能を持った人物として描かれています。
しかし、彼は卓球は「ただの暇つぶし」でしかないというほど、それほど情熱を持っているわけではありませんでした。
そんな彼ですが、師である小泉先生(バタフライジョー)の指導により、隠されていた闘争心を燃やすようになっていきました。
では、スマイルは卓球を通して何を求めていたのでしょうか?
それは、他人に勝つことでも、トップを目指す事でもなかったと思います。
彼にとって、一番の目的は「自分の人生と向き合う事」だったと僕は思うのです。
というのも、彼は、彼は幼い頃にいじめに遭った経験がありました。
しかし、そんな閉じてしまった彼の心を開いたのは、ヒーローこと、ペコでした。
スマイルはペコに卓球を教わり、やがてその楽しさに目覚め、卓球を続けることになりました。
それはただ「卓球が面白かったから」という理由だけではなく、「卓球を通じて笑うことが出来る」という、生きる喜びを手に入れたからだと思うのです。
実際、彼が人前で初めて笑ったのは他でもない「卓球」が楽しかったからです。
だからこそ、彼には「卓球」こそが人生でかけがえのないものであるため、ずっと続けていたのだと思います。
そんなスマイルにとっての卓球とは、彼自身の「人生を変える手段」として存在していたのかもしれません。
そして、彼が自分の人生と向き合えたのは、再びヒーローが見参することで達成されたのです。
かつて自分を救ってくれたヒーローが力を失った事で、それがスマイルにとっても情熱を失うきっかけとなったのでしょう。
けれど、ただ待つばかりではダメという事を悟り、ヒーローを信じながらも自分からアクションを起こしたのが転機になったのだと見て取れました。
ですので、スマイルにとっては「勝てばいい」とか、「一番になる事」とか、「選手になる」とか、そういうのあまり関係がなかったと思います。
そこには、才能を持ちながらも、その才能に縛られるばかりが人生ではないという答えがありました。
ペコについて
ペコは、まさに「ザ・主人公(ヒーロー)」として描かれています。
才能を持ち、カリスマ性もある人物です。
しかし、その才能にかまけ、落ちぶれていく様子も描かれています。
何度も作中で挫折や葛藤を味わっているのは、ペコだったりします。
いくら誰もがうらやむ才能を持っていても、努力をしなければ腐ってしまうという事が描かれているのです。
そんなペコというキャラクターはまるで、子供のように純粋だと思います。
子供というのは、たいていは「大きな夢」や、自分はなんでもできるという「全能感」などを持っているものだと思います。
しかし、そんな無限の可能性だけを信じていても、結局、浅瀬で溺れ「沖にすら出られない」という事も多々あると思います。
それこそが多くの人が経験する「挫折」と言われるものなのでしょう。
そんな挫折を乗り越えるという努力をし、ペコは見事その夢をかなえようとしていました。
まさに「ヒーロー」としてあるべき姿です。
では、ペコが持っていた「才能」とは何だったのでしょうか?
卓球の技術もそうですが、僕はそれだけではないと思います。
それは「好きなことにひた向きにやる」という才能だと僕は思います。
実際、作中で誰よりも卓球を楽しんでいたのは、このペコでした。
ただの「勝利のため」ではなく、「楽しいから勝ちたい!」「大好きだから勝ちたい!」というまっすぐな思いが感じられるのです。
才能というのは、まさに「好きなことに出会う事」で初めて開花するのではないでしょうか。
しかし、負けたり上手くいかなくなると、その楽しさを失うなど、そういった「負の面」もしっかりと描かれています。
けれど、ペコは「卓球は楽しい!」という思いを最後の最後に貫き通すことが出来たので、華々しラストを飾ったのではないかと思うのです。
そうした「自分に素直になる」という事も、また「才能」なのだと、僕は考えるのです。
つまり、彼やオババの言うように「愛してる」と言える事に対し、真っすぐに向き合い続ける事がなによりの才能だと思うのです。
そして、その才能を信じ、突き進むためにはやはり「努力」も必要不可欠なのでしょう。
ドラゴンについて
最も強大なプレイヤーとして立ちふさがるドラゴン。
彼は、卓球を愛していたのでしょうか。
彼の場合は愛というよりも、苦痛、苦行、プレッシャー、といった、マイナスの面が強く描かれています。
「強くなる事が全て」「勝利が当たり前」というように、彼はそんな周囲の期待に応えるためだけに卓球をしていたのでしょう。
世の中にも、ドラゴンのように家柄や立場などのしがらみに囚われて苦悩している人もいるはずです。
そのために血の滲むような努力をしなければいけないというのは、本当に辛いと思います。
ただ、幸いにも、彼をそんな束縛から解放したのがペコでした。
ドラゴンは、純粋に楽しむペコと試合をすることによって、再び楽しさに目覚めたのです。
それこそが彼にとって報われた瞬間でありますが、同時に敗北してしまうという結末でもあります。
しかし、敗北してもなお彼が卓球を続けているのは、やはり「卓球」というものに真摯に向き合っているからではないでしょうか。
その一方で、自分が凡庸な選手で終わる事を気にしているという部分もあります。
「突出した才能がない」と自覚しながらも、「今更後には引けない」という状況にドラゴンはあるのです。
そんなドラゴンの結末を見て、僕は何となく、「人生の悲哀」のようなものを感じました。
一流になれない事を後悔するか、それでも続けるのか、その後のドラゴンはどんな人生を送るのかは想像に委ねらています。
僕自身もそうですが、そうやって「凡庸」で終わる事を感じつつも、何とかあがこうとしている人生に共感を覚えざるを得ませんでした。
みんながみんな、才能を見つけ出すとは限らないという現実がそこにはありました。
けれど、それが別にダメというわけではなく「凡庸でもいい」と認めることも大切なことなのかもしれません。
愛することがなくても、努力は出来るし、それなりの結果が得られるというのもまた人生なのでしょう。
チャイナについて
チャイナは、エリート集団から落とされてしまったという悲しい経緯を持っています。
実力や努力も確かなものだったのでしょうが、厳しい現実に突き当たったというところでしょう。
当初の彼は、自分を自虐したり、日本のプレイヤーを小ばかにしていたりと、卑屈な態度を見せます。
しかし、スマイルに圧倒されたり、ドラゴンの計り知れない強さに直面し、「敗北」を受け入れることとなりました。
けれど、彼は本国に帰らず、日本にとどまり自分の義務をまっとうしようとします。
腐ることなく、自分なりに出来ることをする彼は、努力から逃げることはありませんでした。
その後は、同校のプレイヤーにも友好的になり、指導をしながら、人間的にも成長しました。
しかし、原作ではどうなったのかは、残念ながら明かされることはありませんでした。
ただ、アニメ版だと引き続き指導者として活動し、結果的に日本代表選手となり、見事返り咲くこととなりました。
「人事を尽くして天命を待つ」という諺がありますが、努力が実るのか、実らないのかは最終的には自分の力だけではどうにもならない事もあるのでしょう。
ですので、チャイナの場合は、「努力」や「才能」ではどうにもできない、最も残酷な「運」の要素も関わってきたのではないかと思います。
アクマについて
アクマは、これ以上ない努力家なのでしょう。
ペコやドラゴンに憧れ、自分もそうなりたいという想いから、彼もまたひた向きであったことに間違いはありません。
しかし、彼はスマイルに勝てず、苦しみながら自問自答します。
そして、屈指の名シーン「それはアクマに卓球の才能がないからだよ。」というセリフにつながるのです。
結局、精一杯の努力をしていても、必ず報われるわけではないという現実が突きつけられるのです。
そして、この時のスマイルの言う「才能」とは、技術的な面もあったでしょう。
一方、ペコのようにアクマは卓球を愛していたのでしょうか。
恐らく、アクマは卓球を愛するというよりも、「自分も認められたい」という願望を満たしたかっただけなのではないかと思います。
「自分も人気者になりたい」がために、愛ではなく「嫉妬心」をバネにしていたように見えるのです。
けれど、原動力は何であれ、今まで血のにじむ努力をしていたことに変わりはありません。
それなのに、「自分には才能がない」という現実を受け入れるのは難しいことです。
そのため、アクマは、自暴自棄になり、暴力行為により退学となってしまいます。
もしかしたら、ここで人生のすべてが終わってしまう可能性もあったかもしれません。
しかし、驚くべきことに、アクマは敗北や絶望で終わることはありませんでした。
再び登場した時は、なんと見違えるほど精神的に大きな成長を遂げていたのです。
その理由は恐らく、「アクマの努力は本物だったから」という理由に他ならないと思います。
本気で努力したからこそ、「自分の力量」というものを見極めることができ、その結果、物事をより広い目で見ることが出来るようになったのではないかと僕は考えるのです。
これがもし、半端な努力だったり、敗北感がなければ、その境地には至れなかったと思います。
確かに、アクマの場合は「報われない努力」であったかもしれません。
しかし、逆に言えば努力しなければ至れなかった到達点とも言えます。
ひたむきに努力した結果、彼は新たな人生を見つけることが出来たと言っても過言ではないのです。
そして、それを「無駄な努力だった」と言い切ることが出来るのでしょうか。
いいえ。
そうではなく、それもまた努力の1つの結果と言えます。
たとえ実らない努力だったとしても、得るものはあるということです。
アクマを見ると、他人を羨むばかりだった子供が、努力を通じて敗北を知り、挫折を経て「大人」になった、という1人の人間の成長を見ることが出来るのです。
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というわけで、以上が各キャラクターの「努力」と「才能」とその結果についての分析です。
「努力が必ず報われる」という事は、人によって異なるのでしょう。
この漫画の場合、ペコだけが卓球で結果を出すことが出来ました。
しかし、だからと言って、他のキャラクターの努力はすべて無駄だったのでしょうか?
無駄な努力ならば、最初からしなかった方がよかったのでしょうか?
いいえ、そうではないはずです。
彼らは努力によって、自分の新しい道を切り開いていったという見方もできるのです。
そもそも努力しなければ、そういった道を切り開くことすらできなかったのです。
ですので、「どうせ無駄だから」と言って、何の努力もしなければ道を歩くことすらままならないのかもしれないのです。
しかも、この漫画の中では、「散っていった大人」の行く末も描かれています。
その事についても書かせていただきます。
オババと小泉先生について
この漫画では、指導者と呼べる2人の存在がいます。
かつて実力を誇ったトッププレイヤー、「オババ」と「小泉先生」です。
彼らもまた、かつては「一流の選手」として戦ってきた事が明かされます。
しかし、それぞれ夢は破れ、その名を世に大きく広めることなく現在に至っています。
けれど、彼らの夢も、決して無駄なものではありませんでした。
なぜなら「次世代につなぐ」という大きな役割を担っているからです。
ペコとスマイル、道は違えど、お互い素晴らしい結末を迎えたのも、そんな指導者のおかげだったのだと思います。
これまでに培った経験、技術、知識などは、他の誰かへと引き継ぐことが可能になるのです。
つまり、努力した結果というのは、本人だけのものではないのです。
次の世代に託すという、「希望」をもたらすことにもなりえるのです。
もちろん、自分と同じ夢を若人に無理やり押し付ければいいのか、という事ではありません。
良き指導者となるには、自分の力量を知り、そして相手を見る目が大切になると思います。
そして、そのためにも自分自身が何かを努力していなければ分からない事ではないでしょうか。
例えば、人は年を取る事で、部下や子供などの先頭に立つ場合も出てくるでしょう。
その際、何もやってこなかった人よりも、何かをしてきた人の方が信頼されるのではないでしょうか。
たとえ実らない努力だったとしても、自分が頑張った事があるなら、他人の努力も評価できるようになるはずです。
そして、間違った努力にならないよう、相手を見守り、導く事が必要になるのではないでしょうか。
それが出来るようになるためにも、苦労や挫折を味わい、「同じ痛みを分かち合う」ことが出来る方が自他ともに人生は豊かになるのではないかと思います。
そういう意味でも、無駄な努力はない、と考えれられるのです。
ピンポンにおける「努力」と「才能」ついて
以上が、ピンポンから僕が学んだ「努力」と「才能」の在り方についてです。
無駄な努力なのかそうではないのか、本人が見極めるのは難しかったりします。
才能もないのに続けていても、苦しみしか生まないのは、想像に難くはありません。
そうならないように、自分の力量を知るために有効な方法が、皮肉にも「他人と比べる」事だったりします。
他人と比べるというのは、マイナスに聞こえるかもしれませんが、「敗北感を味わう事」という事は非常に有意義だと思うのです。
なぜなら、敗北感を味わう事で初めて「自分らしい生き方」が出来るのだと僕は考えているからです。
人生はいろいろな形があるため、別に「才能」だけに固執する必要はないのです。
もちろん、「才能がない」という自覚は、確かに苦しく、時には無気力になることもあるでしょう。
しかし、そうではなく「挫折」というのは、別の「新しい道」に進むための必要経費みたいなものなのです。
なので、才能にこだわらず「自分らしい生き方」が出来ればそれで十分なのではないでしょうか。
大事なのは、それを見つけ出すために努力をする事だと思います。
ピンポンを読むと、そんなことに気づかされる次第なのです。
僕にとっての才能と努力
さて、最後に僕なりの努力と才能について書かせていただきたいと思います。
「ピンポン」が読者を惹きつけるのは、「多くの共感を生む」からだと思います。
僕自身も、学生時代は他人の才能に嫉妬するばかりで、それでいて努力から逃げるような生活を送っていました。
それから大人になっても、上司からの叱責を受けたり、自分が何もしてこなかったことを悔やんだり、仕事が嫌で逃げたくてたまらず、非常に悩んでいた時期でもありました。
ちょうどその頃にアニメの「ピンポン」のが放送されていたのです。
それを見た僕は、人生に大きな影響を受けることになりました。
なにより、オープニングテーマである「爆弾ジョニー」による「唯一人」という曲がものすごく響いたのです。
「君にしかできない事なんて、ないかもしれないけど、何もしないまま消えてゆくのかい?」
「まさにピンポンのテーマソングの歌詞だ!」と僕は感動しました。
これが何度聞いても素晴らしい曲で、当時の僕に衝撃を与え、心に刺さりまくったのです。
僕はいつも逃げていてばかりで、何の挑戦もしてきませんでした。
そんなピンポンを見ながら、僕は「もっと自分の可能性を試してもいいんじゃないか」と思うようになっていったのです。
実は、こうしたブログを書くようになったのも、その影響からだったりします。
かつては僕も自分がペコのような主人公だと思っていましたが、結局はアクマほどの努力もしていなかったのです。
今では、たとえ実らない努力であったとしても、やはり「何かしたい!」という気持ちと「愛する事」に対する努力は大切にしたいと思う次第です。
といっても、文章やブログを書く才能が備わっているかは分かりませんが、いくつになってもチャレンジ精神は持っておきたいのです。
というわけで、今回の感想を終えたいと思います。
本当にオススメの漫画ですので、読まれていない方はぜひ一読をオススメします。