タイザン5先生作「タコピーの原罪」のアニメを最終話(全6話)まで視聴した感想です。
ネタバレもありますのでご注意ください。
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ひたすら煮え湯を飲まされ続ける感覚
1話から見た感想としましては、可愛い絵柄からえげつない暴力描写の連続で、終始胃が痛くなる作品でした。
いじめ、ネグレクト、自殺など、目を背けたくなるような社会の闇を突き付けられます。
タコピーと名付けられた宇宙人は、そこにある暴力性を全く理解せずに純粋な視点で解釈。
例えば、殴られた痣⇒模様、母子家庭⇒人間は母親1人でも生める、といった具合に。
そんな人間による暴力と、無知すぎるタコピーの純粋さとのギャップが激しく、見ていて辛くなるのです。
タコピーの葛藤
無知なタコピーでしたが、徐々に痛み、悲しみ、恐怖という感情を理解するようにはなります。
しかし、「難しい事は分からない」というポジションが一貫していて、「何とかしなくちゃ」と思いながらも、基本的には役立たず。
みんな「タコピーが何かをしてくれるんじゃないか」という期待を抱かせるも、結局は何も解決できないままなのです。
そればかりか、久世しずかを殺すという目的を持ったり、雲母坂まりなを殺してしまった張本人でもあるという「原罪」を背負っているのです。
当初のタコピーはまりなの味方として登場し、「しずかを殺すこと」が最適解だと信じて疑いませんでした。(アニメ:第5話)
しかしその記憶を消されてしまい、小4の過去に戻った結果、しずかを救い、まりなを殺してしまうという事態へと発展。(アニメ:第1話)
しずかからは感謝されることにはなりましたが、まりなの死と向き合うことになったタコピーの中に疑念が生じます。
そして、まりなの母に問い詰められたことで、殺してしまうことで周囲の人を傷つけてしまうという罪悪感に苛まれるのです。
タコピーの結論
もともとタコピーは「善」と「悪」という二元論的な考え方で人を判断しようとしていました。
そのため、「悪い人間は殺せばいい」という安易な解決策を思いついてしまうわけです。
それ以外にも、本当は根の深い問題にも関わらず、表面的な解決策ばかり考えていました。
そんなタコピーでしたが、やがて自分の本当の過ちに気づくのです。
その過ちこそが「おはなしをきかなかったこと」「なにもわかろうとしなかったこと」でした。
しずかは本当はどういう気持ちだったのか、どうして悩んでいたのか、本当はどうして欲しかったのか…。
タコピーの目的は「宇宙にハッピーを広める事」でしたが、これまでは「自分のやり方」で何とかしようとしていました。
そうではなく、まずは目の前の相手のおはなしを聞かない限り、前には進めなかったのです。
それこそがタコピーの出した結論でした。
もちろん、おはなしを聞くだけでは解決できるような問題ではないかもしれません。
しかし、これまで相談できる人が全くいなかった彼女達にとっては、どれだけ救われたことでしょうか。
役立たずで頭も悪くて罪も背負っていたタコピー。
しかし、彼はとてつもなく純粋で優しい。
そんな存在がただそばで寄り添ってくれることは、他の何にも代えがたいものでしょう。
そして、タコピーの純粋すぎる優しさが2人を繋ぎとめてくれるというラストとなったのです。
大人への救いはないという無慈悲さ
この作品はさまざまな社会問題を突きつけられる作品です。
タコピーはそれらを解決するわけではないという点が、この作品の無慈悲さとして挙げられる事があります。
あからさまないじめを看過する教師もお咎めなし。
そして、自分勝手な価値観の押し付けで子供を苦しめる親たちも反省することはありません。
では、なぜ大人たちは完全にスルーされてしまっているのか?
それは、「作中の大人たちにとっては子供が困ろうが関係ないから」でしょうか。
例えばいじめがあっても、本人が何も言うわけでもないし、その親が騒ぐわけでもないし、大事に発展することもないのです。
親たちも、自分の思うがまま生きているだけであり、上手くいかないのは「子供が悪い」で片づけられます。
自分の問題で悩むのが精いっぱいであり、それが子供が問題につながっている事は全く想像だにしないのです。
つまり、大人からすれば、ごく当たり前の生活を送っているだけなのです。
そもそも問題というのは、当事者たちが「問題である」という自覚する事からスタートします。
登場する大人たちはすべて無自覚であり、「社会問題」とすら捉えられていないため、彼らもまた「わからない」まま生きているのです。
それが本作を覆う「救いのなさ」に繋がっているわけですが、そもそも大人たちは救われようとすらしていません。
救いというのは困った人間に与えられるものであり、無関心であり問題意識のない人間は救われようとは思わないのです。
だからこそ大人たちは「救いようがない存在」になっているのだと考えられます。
タコピーの役目の偉大さ
唯一、いじめやネグレクトに問題意識を感じ、心の底から「助けたい」と思った存在は「タコピー」だけでした。
ただ、タコピーは社会問題を解決しようという便利な装置や道具ではありません。
手を差し伸べるべき相手は大人ではなく、悩みを抱える子供たちなのです。
原因は大人にあったとしても、彼らは問題を認識していないため始末に負えないのです。
だからこそ、大人という存在を切り離し、「子供たちの悩みを聞く」ことがタコピーにできる最善策だったといえるのでしょう。
では、そんなタコピーがもたらしたものは何か?
それは「自立」に他ならないかと思います。
もしタコピーがいなければ、まりなは母の顔色を窺い続けてトラブルに発展。
しずかと東は共依存関係にあったはずです。
毒親たる人間たちも結局は「自立」が出来なかったからこそ、誰かに依存するようになってしまったのでしょう。
そんな風に各々の親によって作られた「依存」という価値観は、子供たちへの影響を及ぼしていくのです。
そして、タコピーの残した最後のハッピーとは、「親によって作られた価値観の破壊」、すなわち「自分らしく生きる」事ではないでしょうか。
例えば、直樹は自分の理解者である兄に気持ちを吐露できるようになりました。
自分の気持ちを伝えられるようになったことで、友達も増えて「自分らしい生き方」を手に入れたのです。
そのためラストの直樹は、しずかに母性を見出すような依存心が消えることになりました。
また、これまでしずかをイジめていたまりなは、「”親のせい”で自分が不幸になった」という責任のなすり付けが理由でした。
しずかも悲惨な境遇により、どうしても埋められない孤独感が、彼女達を支配していたのです。
しかし、タコピーによって「おはなし」が出来ることを見出すことにより和解に至ることに。
それから成長した彼女たちは具体的にどういった経緯や生活を送ってきたのかは不明です。
しかし、ラストシーンでは彼女たちの目には光が宿り、これまでのように誰かに依存したり、暴力をふるうような暗い目はしていませんでした。
不幸の原因を作った依存的な親とは違い、輝いた「自分たちの人生」を生きられたという解釈の余地が生まれたのです。
タコピーが消えたことの悲しさ
個人的に最後まで見た時最も悲しかったのは、タコピーが消滅してしまったことです。
自分で勝手にやってきたとはいえ、目の前で困っている人を何とかしたいという純粋さによる自己犠牲に尊さを感じざるを得ませんでした。
一方で、無力で難しい事は理解も出来ず、何かしたくても出来ないというもどかしさ。
これはまるで、「正義感にあふれた幼児」を見るかのようでした。
例えば僕自身にも、子供の頃はかつてはタコピーのような純粋さや正義感があったのかもしれません。
しかし、いつしかそんな心に目を向けず、他人を攻撃したり、困っている人に無関心にもなっていくように。
生きていくうちに自分に余裕がなくなり、他人が邪魔に思えてくるようになったからかもしれません。
だからこそ、本作に登場するタコピーに触れた時、どこか気持ちが動かされたのです。
「他人を幸せにする」ということはつまり、自分を犠牲にしなければ達成できないほど難しい事だと思います。
口先だけなら簡単ですが、実際にやることはまずありえません。
そうした難題を考えさせられた次第です。
タコピーの原罪 最後に
全体的に暗く重いテーマであり、救いがあるのは本当にラストくらいしかありません。
しかも、これまでしずかが受けたいじめ、辛さがゼロになるという事でもないのです。
そうした経験をしながらも、ラストのカットではまりなと共に生きてきたシーンが見られたのは救いでした。
また、子供たちの問題は大人にとっても無関心ではいられないのだと考えさせられる内容でした。
だからと言って、結局はタコピーのように側にいてあげられることも出来ず、おはなしも聞いてあげられない自分の無力さも痛感する次第です。
そうした視聴者に「現実」というナイフを突きつけられるかのような作品だと僕は思います。
だからこそ苦しいのですが、その苦しさを作品を通じて「わかろうとしようとする」事で救われる子供がいることを願うばかりです。