僕は数年前に「嫌われる勇気」というベストセラーの本を読んで、人生にかなり影響を受けました。
しかし、最近改めて「嫌われる勇気」を読んでみると、初めて読んだ時より、その内容のところどころにおかしさや違和感を覚える部分も多少ありました。
今回の記事は、本当は、「嫌われる勇気」という本がいかに良書だったかを書こうと思ったのですが、いろいろ考え直してみた結果、やや批判的な内容となってしまいました。
というわけで、今回は批判的な内容として書かせていただきますので、予めご了承ください。
Contents
批判① 原因論の否定と目的論について
この本の冒頭では、「原因論」を否定し「目的論」を主張しています。
原因論とは「Aという原因があるせいで、Bが出来くなってしまう。」と考える事です。
例えば、引きこもりの人が外に出られないという例があります。
そういう人は「“不安だから”という原因があるため、”外に出られない”のだ」と考えることが「原因論」です。
一方、目的論とは「Aをしたくないから、Aが出来ない理由を作る」事です。
先ほどの引きこもりの例で考えれば「“外に出たくないという目的”があるため、“不安という感情を作り出している”のだ」と考える事が「目的論」です。
アドラーは、原因論を否定し「人生は目的論である」と主張されています。
また、トラウマというのも「原因」という名の言い訳でしかない、というのです。
では、もしアドラーの言う通り人生が目的論だとしたら、なぜわざわざ僕たちは「出来ない理由を作る」必要があるのでしょうか?
それは「やれば出来るという可能性」を残しておきたいからだと言います。
例えば世間には「”本当の自分”はすごいんだ」と思いながら、何の行動も起こさない人がいると思います。
そういう人は「可能性」の中に生きていて、可能性が否定されてしまうのを恐れているのというのです。
そのため、「本当の自分」という逃げ道を作りつつ、「出来ない言い訳を作って、行動をしない」というわけです。
だからこそ「Aをしたくないから、Aが出来ない理由を作る」ということになる、というわけです。
アドラーはそういう考え方に異を唱え、言い訳や過去なんてものは、今後の人生をどう生きるかについて何の影響もなく人生は「いま、ここ」で決まるという事が書かれていました。
そこで、言い訳をするだけの人生ではなく、建設的に生きるなるための考え方も提示されています。
それは「自分を変えたければ、過去に縛られる必要はなく、今目的を再設定すればいい」、ということです。
つまり、「出来ない言い訳」や「可能性の世界」ではなく「今の自分がどうありたいか」という目的をもって行動した方が建設的に生きられるのではないか、というお話なのです。
そして、それこそが「自己決定論」として書かれています。
目的論に関する私見
確かに、僕も「出来ない理由」を作った経験はありました。
例えば学生時代は「自分はバカだから」とか「勉強が嫌いだから」といって、テストの点の悪さをごまかしていました。
そう考えれば「言い訳」であり、「原因論」となります。
そうではなく「テストの点数を正当化したいから、勉強をしていないという理由を作る」というのが「目的論」といえます。
実際、僕は人にバカにされるのが嫌だったので「勉強してないから仕方ない」とか、「もし、勉強していれば点数が取れた」という「本当はできるのに」という、逃げ道を用意していました。
この点は、非常に痛いところを突かれ、確かに言い訳しているよりかは、目の前の事をやった方が建設的なのはその通りだと思いました。
また、過去に捉われなくていい事や、人生を自分で選び直すという文面に、大変な勇気をもらいました。
原因論と目的論については、また下記に少し書いていますが、この主張には「なるほど」と思うところがたくさんありました。
ただし、この主張の中にある「トラウマ(精神的外傷)」も一緒くたにするのは危険かと思ったのも、正直なところです。
本の中には「トラウマをきっぱり否定している」とありますが、トラウマというのは「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」とも呼ばれていて、脳科学や精神病の分野となります。
そういう分野を安易に「言い訳」などとして切り捨てるのはいかがなものでしょうか。
ですので、トラウマのようなデリケートな話題については大衆向けの本で扱ってはいけないような分野だと思いました。
一応、PTSDとはどんな病気なのかについて、公的な外部リンクを貼っておきます。
批判② 劣等コンプレックスについて
続いては「劣等コンプレックス」ついてです。
アドラーは、劣等感に対し、それは「主観的な思い込みに過ぎない」としました。
劣等感を感じる時は、客観的事実として「劣っている」という事はなく、「自分が劣っていると感じているだけ」という主張です。
つまり、劣等感とはただの「思い込み」であり、「悪い事ではない」という主張です。
そればかりか、劣等感は「成長への促進剤」とも考えています。
自分が未熟であるが故に「もっと成長しよう」として、劣等感を建設的に利用することが出来るというのです。
その一方で「強すぎる劣等感」を抱いたり、「劣等感を言い訳にする事」を「劣等コンプレックス」と呼びました。
例えば、先ほどにも挙げたように「AだからBが出来ない」という、「原因論」による言い訳も「劣等コンプレックス」という事になります。
さらに劣等コンプレックスが特殊な心理状態に発展すると、「優越コンプレックス」にもなりえるといいます。
「優越コンプレックス」とは、あたかも「自分が優れているようにふるまう事」を指しています。
例えば、自分の存在が特別である事をアピールしたり、虎の威を借りる狐のようになる状態や、ブランド信仰といった「権威付け」が優越コンプレックスにあたります。
他にも「自慢」も劣等感の表れであり、「自らの不幸を武器に相手を支配する事」行為も「不幸”自慢”」となる、というわけです。
そして、その裏には「強烈な劣等感がある」としているのです。
劣等コンプレックスに対する私見
この点に関しても、僕は「なるほど」と思い、納得できるところでもありました。
劣等感を拗らせる人が幸せに見えない理由がよく分かります。
自慢する人や誇示する人は、まさに劣等感に原因がありそうです。
ただし、そう考えるとこの点に関しては「目的論」ではなく、「原因論」になるのかもしれません。
なぜなら、「自慢する理由は、劣等コンプレックスが原因です」というのは、明らかに原因論になっているからです。
これは目的論(自己決定論)と矛盾しているのではないでしょうか?
僕は別に目的論が100%正しいとは思っていませんが、「見方を変える」という点ではためにはなりました。
ただし、「目的論」がすべてだと主張されるのは疑問があるのです。
批判③ 承認欲求の否定
また、この本では、「私たちは、他人の期待を満たす存在ではない」という事を訴えています。
自分の人生は、他人の為にあるのかといえば、そうではないからです。
「自分の人生は自分の為にあり」、究極的には「私は私の事を考えて生きている」という事が言えるのです。
逆に言えば、他人も他人の生き方をしているといえます。
ではもし、「他人の期待に応える事で、見返りを貰う」という承認欲求を満たす行為をするとどうなるのでしょうか?
それはつまり、「自分を他人に合わせる」という生き方になります。
なぜなら、「相手の求める自分になること」が目的となり、自分の人生の事は二の次になるからです。
こうした「他人の期待を満たす」という生き方は、「自分の人生を生きている」とは言えないのです。
ですので、「他人からの承認を求めると、自分らしい生き方が出来なくなる」という事を示唆しています。
よって、自分らしい生き方をするためには、「他人からの承認を否定する事」が大切であり、この本では承認欲求を否定しているのです。
承認欲求に対する私見
これに関しても、確かに一理あるとは思います。
他人の目を気にして周囲に合わせてばかりいると、自分らしさが失われて行くという経験は、僕もあるからです。
しかし、僕は「他者の期待に応えない行けない場面」は多々あると思います。
その最たるものが「仕事」です。
例えば、就職試験や、将来の夢など、目的を達成するためには「他人からの評価」が必要になるときもあるのです。
いくら自分が頑張ったからと言って、テストの点数、他人からの評価、採用基準を満たしていなければ、目的が達成出来ないこともあるでしょう。
もちろん、「自分は頑張ったのだから、どんな結果でも悔いはない」として受け入れれば、問題はないと思います。
しかし、やはり仕事をする上では、それだけでは無理があるとも思います。
例えば「自己満足」の仕事では、お客さんは商品を買ってくれない時があります。
「こんなに頑張りました!!でも評価はいらないですよ!」
という意見は、仕事ではあまり通じません。
企業や社員がいくら「頑張った」としても、お客さんにとっては基本的に「どうでもいい事」だからです。
むしろ「お客さんからのある程度の評価」があるからこそ、金銭が支払われるのです。
よって、他人からの金銭を貰わないと生きていけないならば、「他人の期待に応える必要」は出てくるのではないでしょうか。
一応、この本でも、仕事についても言及されていましたが、下記の論が適用されるのは、「不労所得だけで生きていける人」ではないでしょうか…。
「仕事の主観が他人の期待を満たす事」になったら、その仕事は相当に苦しいものになるでしょう。
なぜなら、いつも他人の視線を気にして、他者からの評価に怯え、自分が「わたし」であることを抑えているわけですから。
-嫌われる勇 岸見 一郎/古賀 史健:著
批判④ 課題の分離について
続いては「課題の分離」についてです。
課題の分離というのは、ある問題や出来事に対して、「誰がその結果を背負うのか」ということを考えることです。
例えば、世間一般の親は「勉強しない我が子」に対し、困ることがあります。
しかし、子供が勉強しなれば、最終的に困るのは誰なのでしょうか。
それは「親」ではなく、「子供自身が困ることになる」のです。
就職にも困るでしょうし、やりたいことが出来ない人生になるかもしれません。
しかし、それはあくまで「子供が自分自身で選んだ未来」であり、「勉強は子供の課題」なのです。
よって親の課題ではない以上、子供に対してとやかく口を出す権利はない、というのです。
これが、「課題の分離」という考え方です。
このように、何か問題を考える時は「これは誰の課題なのか」を考える事が、アドラー基本的な心理学のスタンスとしています。
さらには、たとえ子供が引きこもったとしても、「困った時はいつでも援助する用意がある、というメッセージを送っておくだけに留める事」と書かれています。
「例え我が子であっても、親の期待を満たすためにいきているわけではない」、というのがこの心理学のスタンスなのだそうです。
課題の分離への私見
課題の分離は、読んでいた時はなるほどと思いました。
しかし、今改めて読み直すと、「少しでも間違えると最悪な結末になるのではないか」という危険性を感じました。
それは、ここで書かれている「子供が引き込もった場合」についての文面にあります。
例えば、本に書かれているように、親が「引きこもる我が子を援助する準備」をしていたとします。
ただし、その際、子供が「引きこもり生活を続けたい!」という主張ならば、親はそれを否定する権利はないため、「引きこもり生活を黙認」することとなります。
しかし、それを黙認すると、新たな課題が生まれます。
それは、「引きこもりの子供を養い続ける」という、親の課題です。
つまり、「引きこもりは子供の課題」として放っておいた場合、子供にかかる「食費や光熱費」や「子供が自立できない悩み」というのは、親にかかってくるのではないでしょうか?
そこでもし「引きこもるのは子供の問題だから、自分には関係ない」といって切り捨てた場合は、もっと最悪です。
住む家を奪ったり、食事などを与えなければ、それは虐待ではないでしょうか。
もちろん、それは極論かもしれませんが、「課題を完全に分離する」ということは、そういう判断も生まれる可能性もなくはないはずです。
また、そうならないためにも、「子供との信頼関係を築けているかが重要」という文面もありました。
それならば、確かに親の課題として、子供と関係を築く必要はあります。
しかし、それは「あらかじめ」の場合であり、すでに手遅れだった場合はどうなるのでしょうか。
関係が築けなかったら終了となり、結局「子供を養うという課題」が親に生まれるわけです。
よって、課題の分離における線引きは、ある程度曖昧なモノにしないと、極端な思想を生み出しそうで怖いと感じました。
批判⑤ 競争の否定
さて、最後は「競争」の否定についてです。
「人生は誰とも競争する必要がなく、ただ前を歩いていればいい」と書いてあります。
また、他人と自分を比較する必要もなく、「健全な劣等感」とは、「理想の自分」との比較から生まれると説いています。
そして、能力の差はあるけれど、人間としては「対等」としています。
対等だからこそ、比べる必要がなく、「今の自分よりも前に進むことに価値がある」としているのです。
また、自分が自分であろうとするとき、「競争」はそれを邪魔するどころか「不幸になる」と言います。
なぜなら、競争には「勝者と敗者」が存在するからです。
勝ち負けを意識すると劣等感が生まれ、優越コンプレックスにもつながると言います。
しかも、その時の他者は「世界の敵」だと見なすようになるというのです。
そうなると、絶えず敗者にならないようにと、ライバルと戦い続けることになり、心の休まる事がない、という主張です。
そうならないためには「人々は私の仲間なのだ」という実感が必要と言います。
そう思えれば、世界は安全に快適な場所に映る、というのです。
競争の否定についての私見
さて、僕はこれを今まさに読みなおして、最も違和感を感じました。
それは「資本主義」とは全く異なる考え方だからです。
もっといえばこの主張は、「社会主義」の考え方に近いものがあります。
そこで、僕はふと思い立ってアドラーの生まれた時代背景について調べると、以下の事が分かりました。
アルフレッド・アドラー(Alfred Adler、ドイツ語発音: [alfreːt aːdlɐ](アルフレート・アドラー)、1870年2月7日 – 1937年5月28日)は、オーストリア出身の精神科医、心理学者、社会理論家。
アドラーは1870年~1937年の時代に生きた人です。
では、その時代、彼の活動拠点となったヨーロッパではどんな時代だったのでしょうか。
以下のサイトを引用させていただきます。
1840年代のドイツの産業革命によって労働者階級の形成が進み、その中から資本主義を否定し、労働者の解放を目指す思想が生まれた。フランスの空想的社会主義を批判的に発展させ、科学的社会主義を提唱したマルクスとエンゲルスが、1848年に『共産党宣言』を発表し、社会主義運動を本格的に開始した。これはマルクス・エンゲルスらの組織した共産主義者同盟の綱領として作成されたものであった。
要約すると、1840年以降の時代、資本主義は否定される風潮がありました。
そこで1848年に、有力な思想家のマルクスとエンゲルスが、社会主義運動を本格的に開始した、とされています。
そしてその多大な影響力によって、実際に「社会主義国家」として誕生したのは、1917年のロシア革命を経て確立した「ソビエト社会主義共和国連邦」です。
つまり、アドラーの生きた時代や、まさに資本主義と言う名の競争を否定し、「平等」な社会主義に大いなる期待が寄せられていた時代、と考えられるのです。
ただ、これだけだとソースが不十分かもしれないので、こちらのPDFより、以下の一文を引用させていただきます。
社会主義はもっとも深いところでは共同体感覚に根ざしていて、人間の根源的な叫び声であり、さしあたって共同体精神のもっとも純粋なもっとも実用的な表現なのです。
共産主義と心理学 -アルフレッド・アドラー
野田俊作訳(大阪)http://adler.cside.ne.jp/database/056/056_04_noda.pdf
よって、アドラーにおける「競争の否定」することは、社会主義的の発想と言わざるを得ないのです。
しかし、歴史を見れば分かる通り、ソ連は1991年に崩壊し、社会主義国家は現在においては失敗だったことが分かります。
よって、「競争を否定する事」は、資本主義にはそぐわない思想であることが分かるのです。
もちろん、僕としても「資本主義が100%正しい」とは思ってはいませんし、競争については確かにアドラーの言う通り、不幸の原因にもなるとは思います。
しかし、そうだとしても、他者との比較や競争は、悪いことばかりではないとも思います。
なぜなら、他人と比較するということは、「自分の長所を知る」というきっかけにもなるからです。
そして、自分の長所を知る事で、得意分野を生かす事が出来れば、より他者への貢献につながるとは言えないでしょうか?
逆に、苦手なことを苦手と知らないまま、一生懸命やって「昨日の自分よりも上達したからこれで良し!」というのはただの自己満足に思えます。
もちろん、趣味の範囲で好きな事をするのはいいですが、例えば仕事は「好き」だけでは上手くいかないこともあるでしょう。
また、趣味にいそしんでいる時も、他人との比較から技術や知識を得られる事だって多々あるはずです。
ですので、他人と比較によって、「自分にはこれが向いている」という事を知り、「より好きなこと」を探したり、得意分野を開拓していく方が建設的だと僕は思うのです。
そうした考えが、資本主義社会の中で生きる、僕の意見です。
また「競争=すべて敵」になる、というのも、今ではあまり納得していません。
「競争しながらも、切磋琢磨してこの世界で頑張る仲間」として捉える事は可能だからです。
(少なくとも僕は。)
そして、こうした僕の主張と「嫌われる勇気」が矛盾するのは、「資本主義的発想VS社会主義的発想」だからなのでしょう。
もちろん、資本主義に染まるということで、多数のデメリットもあるかとは思います。
しかし、だからといって失敗に終わった社会主義に戻ることは出来ないのでしょう。
ですので、社会の構造に嘆くよりも、当書にあった通り「今ここ」をいかに生きるのかを考えるのが最善なのかもしれません。
ただし、能力の差はあるけれど、人間としては「対等」という考え方は、僕の中では非常に心に響いたことでもあります。
どんなに地位が高かろうが低かろうが、人間という生き物である以上、どんぐりの背比べなのだという思想は、僕の心のよりどころでもあります。
嫌われる勇気の批判 感想
というわけで、以上が「嫌われる勇気の批判」についてです。
僕があくまで疑問を持った部分に焦点を当てて考えたので、やや偏っているかもしれない事を、謝罪しておきます。
また、今回はあくまでアドラー心理学の批判ではなく「嫌われる勇気で書かれたアドラー心理学」の批判としてご了承いただけると幸いです。
調べてみた限りではありますが、嫌われる勇気=アドラー心理学ではなさそうなので。
もっとも、アドラーは文字としての資料をほとんど残さなかったと言われているそうなので、「正しいアドラー心理学」というのもよく分からないところではありますが…。
また、この本は、心理学という専門的分野をビジネス書として出版されている事もあり、決して「専門書」ではないことにも留意しておきたいところです。
・・・などと散々偉そうに書きましたが、僕はこの本を初めて読んだとき、目から鱗が落ちるばかりで、大いに参考になったことだけはお伝えしておきたいところです。
僕はこれを読んだ事で、悩みが一部解決できたこともあり、新しい考え方のヒントはたくさん詰まっていると感じています。
そういう何かしらの気づきを与えてくれたという面では、非常に感謝しております。
とはいえ、どの書籍にも言えることですが、「この通りに実践しなければ…」みたいな「執着」は危険だとも思っています。
人の考えやその時の「正解」とは、場面によって変わるものであり、アドラー心理学(嫌われる勇気)が通用する面があったとしても「全てにおいて絶対的な正解ではない」事はとどめておきたいところです。
ちなみに、続編の「幸せになる勇気」も、初めて読んだときは非常にためになると感じました。
というか2冊セットで読まないと分からないところも多々あったと記憶しています。
とはいえ、他人に譲渡してしまったので、今は手元にないので内容の確認が出来ませんが、また何かの機会があれば、また読み直させていただきたいです。
また、「嫌われる勇気」に限らず「自己啓発本」についての記事も書きましたので、ご参考までに。
↑自己啓発本には注意が必要という旨が書いてあります。