短編アニメ 彼の妻は雌鶏(Hen,his wife) の解説と考察について

妻は雌鶏

僕は数年前にショートアニメにハマり、動画サイトでいろいろと作品を漁っていた時期がありました。

そんな中でも、特に異質だと思ったのが「妻は雌鶏(原題:Hen,his wife)」という作品です。

これは1989年にイーゴリ・コヴァリョフ監督によって作られた短編アニメです。

イーゴリ氏のプロフィールにつきましては、下記のサイトに詳しく書かれています。

http://www.praxinoscope.jp/

 

さて、この「妻は雌鶏(つまはめんどり)」という作品をまだご視聴でない方は、実際に見ていただければ、その異質さは一目瞭然だと思います。

 

・・・

さて、みなさんは、この作品をご視聴されて、その内容や意図はご理解になられましたか?

 

ちなみに僕は、最初は全く分かりませんでした。

 

初めて見た時は衝撃を受けたものの、いったい何が伝えたいのかとか、何を意味しているのか、考えても答えは出ませんでした。

 

しかし、最近になってようやくヒントを見つけたので、それが今回の記事を書かせていただく契機となりました。

 

そのヒントとは、この動画がアップされているYoutubeのコメント欄にありました。

「ロシア人の家族がいる」という海外の方が、この作品を解説されていたのです。

 

どうやら、その方のお母さまがロシア人だそうで、当時のロシア(ソ連)の事情にお詳しかったそうなのです。

そのコメントのおかげで、今まで謎に包まれていたこの作品の内容の考察が大幅にはかどりました。

 

そこで今回はそのコメントにあった解説を手掛かりとし、その解説になかった部分を、僕なりの考察として書かせていただきたいと思います。

 

(ちなみに、なぜロシアが舞台なのかといえば、監督のイーゴリ氏はウクライナ出身ですが、アニメ制作はソ連で行われていたとの事からです。)

 

妻は雌鶏 ストーリー解説

~妻は雌鶏 ストーリー解説~

 

0.かつてのロシア(ソ連)では、男尊女卑的な風潮があり、妻を侮蔑的な意味で「鶏」と表現されていた時代があった。

 

1.冒頭では、妻が家の中を走り回り、あわただしく家事をして、夫に尽くしている。

2.一方、夫は足湯に浸かりながら本を読んだり、音楽を聴いたりと、悠々自適に過ごしている。

3.この時点では、夫は妻を「鶏(侮蔑の対象)」としては見ていない。

 

4.ところが、セールスマン風のスーツの男(恐らく夫の友人)が来てから事態は一変する。

 

5.スーツの男は、「妻が鶏である」という事に気づき、夫に耳打ちして教える。

6.夫は、その事に疑問を持ち、事実を確かめようとする。

 

7.そして夫は改めて妻を見やると、「鶏」という目で見るようになる。

8.それを指摘された妻はショックを受け、同時に夫も失望する。

9.やがて、夫の失望は怒りへと変わり、妻を家から追い出す事にする。

 

10.ところが、妻がいなくなったとたん、夫はすぐに不安や混乱に陥ってしまい悪夢を見る。

11.そこで、夫は妻を家に呼び戻すために、電話をかける。

12.そして、妻は家に戻り、2人は再会する。

 

13.しかし、妻から見た夫もまた「鶏」になっていた。

14.妻は今まで夫に愛を注いでいたが、実はその夫こそが「侮蔑の対象」であったことに気づいたのだ。

15.そして、それに気づいた妻はショックを受けて逃げ出した。

 

~妻は雌鶏 おしまい~

 

・・・というわけで、以上が、コメントを元にしたストーリーの解説となります。

 

つまり、この作品は、当時のロシアにおける「女性を”鶏”と呼び、軽視する社会」に対して、「夫も同じ鶏である」という皮肉を込めたのではないか、という事です。

 

もちろん断定ではできませんし、他にもいろんな意見や解説もあると思います。

ただ、僕としてはこの解説が最もしっくりきたという所です。

 

しかし、以上では解説しきれなかった疑問点はまだありました。

というわけで、僭越ながら、ここからは僕の主観を大幅に交えて考察を始めてさせていただきたいと思います。

 

妻は雌鶏 考察

芋虫男は何者なのか?

このアニメで恐らく最も異質なのは「芋虫男」です。

いったい彼は何者だったのでしょうか?

様々なコメントから引用すると、犬や猫のような「ペット」を表しているそうです。

ただ、人間の顔をしているので、「子供」なのかもしれない、という意見もあります。

 

とはいえ、これはどちらにしても意味が通ると思いますので、子供・ペットの2つの視点で考えていきます。

 

なぜ芋虫は縛り付けられた?

では、なぜペット、もしくは子供である芋虫は縛り付けられてしまったのでしょうか。

僕の考えでは、夫は1人では芋虫の世話すらも出来ないため、厄介払いとして縛り付けたのではないかと思います。

 

例えば、夫は芋虫を風呂にも入れようとせず、ミルクもあげない描写もあります。(妻はミルクをあげて世話をしていました。)

さらに、芋虫がオモチャを壊した時、夫は血走った目で芋虫への怒りをあらわにします。

その際、かつて妻が皿を割るというミスをしたシーンがフラッシュバックして重なるように描かれています。

 

これはつまり、夫は妻に抱いた時と同様の怒りを、芋虫にも向けるのです。

よって、芋虫を縛るという描写は、夫による「動物虐待」、あるいは「育児放棄(ネグレクト)」という社会問題を描いていると考えられるのです。

 

スーツの男は何者か?

では、物語中盤でスーツ姿で現れた男は何者だったのでしょうか?

それは恐らく、「夫の友人」のような間柄だと思われます。

彼は黒い仮面をつけて脅かすようにやってきて、それを外して笑いながら「実は俺でした~!」みたいなドッキリを仕掛けているように見えます。

 

その後、夫の元にやってきてハグをするので、「友人」もしくは「親しい間柄」なのだと思われます。

 

なぜ夫は青色なのか?

さて、ここからはかなり難しいのですが、なぜ夫は「青色」で描かれているのかという事です。

これは「青色」に意味があるというよりも、色彩の違いによって、何らかの比喩を描いているのだと思います。

 

例えば、作中に登場するビンのようなものや時計コップやミニカーなど、夫や妻が使う小物はすべて「青」で描かれています。

それとは対照的に、友人が持ってくる物の色は「赤」となっています。

マントの裏地や、プレゼントのリボン、そして「テントウムシ」もすべてが「赤」です。

 

この「青」と「赤」という色彩の違いによって、「異なる価値観の対比」を描いていたと思われるのです。

 

その例として、友人が家にズカズカと上がってくるなり、テーブルの上を歩いて「青い皿」を何事もなく踏みつけて割るシーンがあります。

これはつまり「友人によって価値観が上書きされていく」という力関係や今後のストーリーを暗示していくのではないかと思うのです。

 

では、その価値観の違いとは何かといえば、1つは「妻に対する視線」です。

 

夫としては、最初こそ「妻を人間」として見ていたと思います。

ところが、友人はそれを「雌鶏だ」と言います。

 

友人は妻に対し、何らかの欠陥を指摘し、侮蔑的な表現を使うのです。

そんな友人の価値観に感化されてしまい、夫も「妻が雌鶏」のように見えてしまうのです。

 

この時、友人がもたらした新たな価値観こそが、「男尊女卑」だったのでしょう。

 

さらに、異なる価値観は、他にももう1つあります。

それは、夫は家でくつろいでいますが、友人はスーツ姿であるという比喩にあります。

 

これは、夫は仕事をせずに怠けているが、友人は働いている、という違いを描いているのだと思います。

このアニメが作られた当時ソ連では、社会主義であったため「どんなに働いても怠けても賃金は一緒」という時代だったそうです。

 

ですので、夫は怠け者でダラダラしながらも賃金をもらいつつ、友人は懸命に働いていた、という価値観の違いを描いているのだと思うのです。

 

しかし、このアニメが作られた1989年といえば、ソ連の崩壊のカウントダウンも始まり、資本主義の到来が待っている時代でもあります。

怠けてばかりいる夫は、資本主義という新しい時代から取り残されてしまう、という暗示がなされているように見えます。

そして、それを裏付けるのは、最後のシーンにあります。

青いミニカーとテントウムシがそれぞれ映るシーンです。

 

青いミニカーは、壁にぶつかって止まり、その脇を「赤いテントウムシ」がてくてくと横切っていくのです。

これこそが、停滞する青い夫、新たな時代を進む友人、という違いが描かれているように思えるのです。

 

また、テントウムシはロシア語で「Божьи коровки(神様の牛)」と呼ばれていて、幸運のシンボルとされているそうです。

一方でミニカーというのは、子供のおもちゃであり、夫の精神年齢を表しているのかもしれません。

そう考えると、友人は幸運になり、夫は不幸になる…というメッセージにも思えてきます。

 

ただし、テントウムシが蠢いている気持ち悪さ、そして「食べられる」という描写も見られます。

これは、友人のような資本主義者だからと言って、それが正しいわけではなく、見方によっては「画一的であること気持ち悪さ」や「搾取される」という事を表しているのではないでしょうか。

 

また、友人のような資本主義者によって競争が生まれた場合、「格差」や「差別」を産むことにもなります。

それがさらなる「男尊女卑」へと繋がることを暗喩しているのかもしれません。

 

付け加えて言えば、働くことによって「能力主義的思考」になった友人から見れば、ミスばかりする妻が「雌鶏」にしか見えなくなったのではないでしょうか。

 

こうした価値観の違いや、生き方の違いを知った夫が「妻を見る目」を変えた、と考えられるのです。

 

ただし、夫は最後には「自分の価値観」を信じることにしました。

終盤では電話機の下から、友人の首が転がってくるシーンがあります。

これは、「友人(他人の価値観)」を打ち消し、「妻(自分の価値観)」を選んだという、夫なりの意思表示を表現されているのかもしれません。

 

ただ、残念ながら夫は妻に依存してばかりいたので、最後にはそれを悟った妻に逃げられてしまいます。

結局、夫の持つ価値観は、「怠け者」であり「妻がいないと何もできない」ため、彼こそが本当の「鶏」だったのでしょう。

 

以上が、「なぜ夫が青い体で描かれているのか」という考察となります。

 

ちなみに、テントウムシを見た時の芋虫の食いつきはよく、これは「大人のもたらす価値観に、疑問を持たずに素直に受け入れてしまう」という「子供特有の純粋さ」を描いていると思いました。

あるいは、子供はすんなり他者の価値観を受け入れてしまうため、注意が必要だというメッセージなのかもしれません。

 

なぜ友人は消えたのか

さて、友人は、最初こそエレベーターに乗ってやってきました。

ところが、去り際に霧のように去っていく描写となっています。

 

これは、友人の持つ価値化が一般社会に溶け込んでいくという暗示を表現するためだったのではないでしょうか。

つまり、夫のように「妻に頼る生き方」は通用しなくなり、友人のように働く生き方をする人だけが生き残れる世界になるという暗示です。

友人はそれを見越して、笑いながら去っていったのかもしれません。

 

妻が逃げた理由

さて、最後の考察は「逃げた妻」についてです。

 

妻は、最後の夫の姿を見てショックを受けるわけですが、具体的に何がショックだったのでしょうか。

それは、「怠けてばかりで成長が止まっている」という、何の進歩もない夫に対し、衝撃を受けたのだと思います。

そして、それ以上に、今までそんな夫に対し、惜しみない愛を注いでいた自分に恐怖を覚えたのではないか、と思うのです。

 

つまり、夫の足は最初から「鶏の足」だったのに、妻は全くそれに気づいてなかったことに、ショックを受けたと考えらえるのです。

作中でも、夫の足は湯船につかっていたりして見えず、その足は最後になってようやく映し出されました。

 

また、妻が薬を飲む描写があったところを見るに、妻も薬に頼っていて「自分を騙していた」のかもしれません。

それによってあえて気づこうとしなかった、とも考えられます。

 

そして、妻は家を追い出されたのち、初めて自分がいた場所の恐ろしさに気づき、再び家を出て終わったのだと言えるのです。

 

「自分勝手で依存的で何もできない夫」、そして「それに気づかなかった妻」。

 

これ以上の恐怖はないでしょう。

 

そして、この先には社会主義の衰退と終焉、さらにはまだ見ぬ新たな価値観の時代が到来します。

その中で、果たして妻はどうやって生きるのか…。

 

この作品は、そんな時代背景と、女性軽視という問題の2つの面から問いかけをしているような内容だと思いました。

 

妻は雌鶏 最後に

というわけで、以上が僕なりの「妻は雌鶏」という作品の解説と考察になります。

 

しかし、上記の解説にて、一部触れなかった点があります。

それは、友人の私物に見られた「赤色」は、資本主義の象徴ではなく「社会主義・共産主義」のシンボルカラーという点です。

もし友人が資本主義者であれば、シンボルカラーとの矛盾が生じてしまうため、もしかすれば、今回の考察には不備があるかもしれません。

 

ただ、赤色というのはそれ以前に、「革命思想」という意味を持っていました。

ですので、このアニメにおける「赤色」は、社会主義を表しているのではなく、「革命をもたらす」という意味で使われているのではないかという見方も可能だとは思います。

そう考えれば、夫や妻の価値観を壊す=革命をもたらす、という意味で「赤色」が使われたという説明もできるはずです。

 

もちろん、こうした作品に正解はなく、各々にとっての正解があるのでしょう。

というか、深読みしすぎた可能性もあります。

 

ただ僕としては、今までの疑問に多少なりとも自分なりの答えが出せたので、満足しています。

その多大なるヒントとなったYoutubeのコメントを書いてくださった方に、心からの感謝をしております。

 

至らぬ点はあるかと思いますが、考察にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。