宗教はなぜ気持ち悪いと思ってしまうのかを考える

宗教

今回は宗教という、かなりデリケートな話題に触れます。

 

なぜあえて宗教の話をするのかというと、昔、僕の勤めていた会社の上司が、とある学会員だったからです。

僕はそんな彼から、何回か勧誘をほのめかされた経験をしました。

その際、特に明確な理由はなかったのですが、激しい嫌悪感を抱いたため、僕は断り続けていました。

 

ただ、断る理由がずっと曖昧だったので、ごまかす感じでやんわりと逃げるような形でした。

それから今まで「なぜ断ったのか」という事をちゃんと考えてこなかったので、この場を借りて改めて言葉にしておこうと思いました。

 

また、僕以外にも、同じように「宗教」に対して嫌悪感を持っている人もいるでしょうし、あまり近寄っちゃダメ的な風潮もあると思います。

 

そこで、今回は宗教はなぜ気持ち悪いのか、というテーマで書いていきたいと思います。

 

日常における宗教について

まず、僕は一概に宗教を否定する気はありません。

というのも、日本人は無宗教と言われていますが、宗教というのは、日常的に溶け込んでいる場合もあるからです。

例えば、日本では人が亡くなればお経が読まれるという仏教的な側面があります。

それでいて、ハロウィンやクリスマスにイベントを行ったりするというキリスト教的な側面もあります。

また、神道に見られるように、お盆になれば先祖を祀ったり、年が明ければ初詣でに行ったりと、宗教とは生活のどこかに溶け込んでいると言えるのです。

 

さらに、言葉にしても、宗教由来のものがいくつもあります。

例えば、「ありがとう」という挨拶は仏教由来と言わていますし、「天国(heaven)」や「地獄(hell)」という概念もさまざまな宗教によってもたらされています。

 

そう考えてみると、宗教とは別に悪いものではないですし、取り立てて気持ち悪さも感じることはありません。

ですので、僕も宗教を否定することはありませんし、むしろ文化や伝統のようなものだとも感じています。

 

宗教が気持ち悪いと思った理由

しかし、その一方で、特定の宗教団体に気持ち悪さを感じるのも事実です。

そしてその理由は何かを考えると、3つほど思いついたので順番に挙げていきます。

 

① 偏った思想の集団だから

1つ目は思想が偏っている集団だから、という点です。

 

極めて単純な例として、「目玉焼きに何をかけますか?」という質問があったとします。

塩コショウ、醤油、ソース、マヨネーズ、ケチャップ…。

 

人それぞれ、好きなものをかけて食べればいいはずです。

けれど、もしそこで「絶対に醤油でなければならない!」みたいな極端な思想を持った人が現れたとします。

 

もちろん、それも1つの主張であり、問題はありません。

ただ、それは逆に言えば「他の調味料は絶対に認めない」という事になるので、醤油以外の人を敵に回すことになります。

 

敵とはいっても、発言力のない人がいくら極端な主張しても、誰にも相手にはしないでしょう。

けれど、場合によっては、賛同者が現れることがあるのです。

 

「自分も醤油派だ!ほかの調味料なんかだめだ!!」というように。

すると、最初はとるに足らない意見の1つだったのに、いつのまにか「声の大きい集団」となることがあります。

 

そうした思想の偏った集団はほかの主張を認めようとせず、ひたすら自分たちの意見の正当性を訴え続けることがあるのです。

 

もちろん、これはただの調味料の話ではなく、生き方であったり、神の存在であったり、紛争や政治なんていう大きなテーマにおいても言えることだったりします。

 

ただし、誰が何を信じようが信じまいが、それは自由ですし、閉じた空間だけの話で終わればそれでいいです。

しかし、それが権威や影響力を持ち、それによって無関係の人の生活が脅かされる場合もあるわけです。

 

そうなってしまえば、僕も自分の生活を守るために、防衛せざるを得ません。

そして、その防衛の原動力となる感情こそが「気持ち悪さ」でなのではないかと思います。

 

つまり、宗教が気持ち悪いから嫌うのではなく、自分を守るために気持ち悪いという感情が生まれる、と僕は思うのです。

 

② 染まってしまう恐怖

2つ目は、怪しげなセミナーやグッズ販売などのお金が絡んでいることもありますが、「染まってしまう恐怖」にあると思います。

 

自分の人生や思想がどうあろうと、本来は自由なはずです。

しかし、宗教はその自由を「1つの場所」に縛り付けようとする側面があると思うのです。

 

本当は様々な意見を持っていいはずなのに、1つのことを信じてしまうと、そこから抜け出せなくなってしまうこともあるでしょう。

すると、やがては周りが見えなくなったり、ありもしないものにすがるしかなくなる…、なんてことにもなりかねません。

 

そんな風に、他人からの影響によって、自分が自分でなくなってしまいそうな恐怖を覚えるのです。

「○○さんのお考えに染まりたいです!」と思う人がいるなら話は別ですが、僕は率先して染まろうとは思えません。

 

さらに言えば、救いを求めている人に高額な商品やサービスを売りつけるような人もいるわけです。

資本主義としては間違ってないかもしれませんが、そのやり方は単純に気に入りません。

救いを求める弱者から搾取することは、ビジネスというよりもほとんど詐欺と同じだと感じます。

 

実際、それで生活を破壊される人もいるので、染まることは周囲をも不幸にすることもあるのです。

信者だけでなく、その家族や子供や親しい人間にまで被害が及ぶことは、得てしてよくある話でしょう。

 

③ 思考が止まるという危険性

3つ目は、思考が止まるという危険性です。

共通の思想を持つ集団は、仲間内でお互いが衝突しないように、同調やら肯定されるのが当たり前のような空間になるでしょう。

 

確かに、特定の集団に属し、その中で愚痴ったり、一緒にいて安心する関係を築くのはもちろん大切です。

しかし、人は必ずしも全員から同調されるわけでもないですし、肯定する事だけがいいとは言えないと思います。

 

例えば、同じ思想を持って集まったとしても、どこかには反論したり、違う意見を述べたくなることもあると思います。

しかし、それがハッキリと言いあえる関係ならいいですが、その発言で関係がこじれたりすることもあるでしょう。

さらに、違う意見を述べることによって「異端者扱い」され、差別や攻撃の対象にもなりかねません。

 

そして、そうした関係の崩壊を恐れて、言いたいことを我慢するなんてこともあり得ると思います。

 

すると、どうなるでしょうか?

 

「長いものには巻かれろ」の精神で、結局みんなして同じようなことを口をそろえて言うことになると思います。

「みんなが言っているから」とか、「あの人が言うから自分もそう思う」だとか、そうやって自分の意見を放棄せざるを得なくなるわけです。

 

つまり、同調とか肯定ばかりしていると、「思考停止」を産むことにもなるのです。

ずっと同じ意見を貫くと言えば聞こえはいいですが、それで本当に素晴らしい成果をあげられるのかは疑問なのです。

 

もちろん、一度ハマってみるのも1つの考え方ですが、そればかりに固執してしまいそうなのが怖いため、やはり気を付けながら付き合い方を考えるほかないと思います。

 

宗教について まとめ

というわけで、以上の3つが僕が宗教が気持ち悪いと思った理由です。

しかし、僕は宗教でどんな意見や考え方があろうとも、そのものを否定はしているわけではありません。

意見というのは偏りがあるからこそ、多様性が生まれると思うからです。

 

僕自身、宗教という概念が存在しているからこそ、「いや、僕はこう思う」という持論を述べているにすぎないのです。

宗教を信じている人からすれば、僕の方がおかしい存在に見えるのでしょうし、僕も偏っているように見えるのでしょう。

 

そうした相反する考えがあり、それぞれがそれぞれの道を歩む、それでいいのだと思います。

 

ただし、ここで僕が特定の宗教団体を最も嫌悪する4つ目の理由を述べさせていただきます。

 

最後に、それを書いて締めくくらせていただきたいと思います。

 

僕が宗教が嫌悪する最も大きな理由

僕が最も宗教を嫌悪する最大の理由。

それは、「他人から強要される場合がある」という理由です。

 

というのも、僕を勧誘してきた人は、かなりしつこかったのです。

同じ職場という事もあり、嫌でも毎日会わなければならないし、特に上司であるという立場も利用していたのかもしれません。

 

僕が仕事でミスをして、上司がお説教をする際に、そうした教義めいた事を持ち出して何度もダメ出しをされました。

その際、決まって「ウチに来て、一緒に”勉強”すればいい」という文言があり、それがどうしても受け付けなかったのです。

 

ただ、その勉強は何かといえば、具体的に宗教とか、学会というワードは出ませんでした。

しかし、お説教の内容に違和感があり、言葉の意味とかを調べると、例の宗教が浮かび上がってきた、という感じでした。

 

僕は今ではその職場はやめており、上司との連絡も絶っているので勧誘されることはなくなりましたが、当時はものすごく苦痛でした。

それに僕がミスした時にしか言わないので、弱みに付け込まれる感じが嫌でたまりませんでした。

 

宗教というのは、そもそも「安心」や「救い」がベースになっていることが多いです。

上司からすれば、「社会人になりたてだった僕という弱者を救いたい」という善意があったのでしょう。

しかし、僕は別に救いなんて求めてないし、いらないものを押し付けられても困るのです。

 

もちろん、すべての宗教が押し付けがましいわけではないのは理解してます。

けれど、1度でもそういう経験をしてしまうと、宗教に対する嫌悪感は十分に植え付けられてしまいました。

こちらを勝手に弱者扱いして見下してきて、「俺なら救ってやるよ」みたなスタンスをとられても、素直に従えるわけがないのです。

つまり、勧誘というのは「余計なお世話」でしかないのです。

 

というわけで、これが僕が宗教を嫌悪する最も大きな理由なのでした。

 

ただ、よかったのは、結果として「宗教とは何なのか?」という事に興味を持てたことです。

当時の僕は、宗教には一生無縁だと思っていましたし、勧誘によって嫌悪感を抱いたので、二度と触れてたまるか、みたいな憤りを覚えていました。

 

けれど、時が経った今となっては、ただの嫌悪感で片づけるのもいかがなものだろうか、という発想にいたりました。

僕も、宗教をただ感情的に否定するのではなく、「では宗教から何が学べるのか?」という視点も必要なのではないかと今では思っているのです。

 

そこで気づいたのは、あくまで僕が嫌いなのは特定の宗教団体であり、別に宗教そのものが悪いというわけではない事でした。

まだ不勉強ではあるものの、例えば仏教は哲学的な要素も多く、面白い部分もあると感じています。

 

もちろん、仏教だけを勉強するのではなく、キリスト教やイスラム教など、様々な宗教違いに触れることでも新たな発見があるはずです。

それから歴史的な時代背景だったり、さらに前時代の神話を調べたりと、別に特定の宗教だけにこだわる必要はないと思います。

大事なのは、どこから何を学ぶかであり、信者になることが正解ではないはずです。

 

そういう気づきによって、今までにあった「宗教」という言葉に対する拒絶反応が薄れていったのは、よかったと思うところです。

 

だからといって、上司に感謝するわけでもありませんが、人生経験にはなったと思うという事で、今回のお話はおしまいとなります。

 

みなさまのご参考になれば幸いです。