優しい人が言いがちな「逃げてもいい」という言葉。
確かに「逃げる」という選択は時として有効だとは思います。
しかし、だからといって、安易に「逃げてもいい」という言葉を使う人への違和感もあります。
今回はそんな「逃げてもいい」という言葉について考えていきたいと思います。
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「逃げてもいい」は嘘なのか?
まず、逃げるためには、大切なことがあります。
それは「どこに逃げ込むのか」という事です。
当たり前ですが、重要な事です。
例えば、学校から逃げたとしても、待っているのは「就職」であったり、「家」しかないわけです。
もちろん、就職したければ学校から逃げてもいい場合もあるでしょう。
中学生までなら学校に行かなくても自動的に「卒業」はできますからね。
しかし、ある程度の学歴がないと思うように就職が出来ない事もあります。
一方、永遠に家に逃げ込んだところで、親が一生養ってくれるかは分かりません。
また、事あるごとに逃げてばかりいては、いずれ苦しくなる事もあります。
逃げ続けた結果、現実にも向き合えなくなってしまえば、元も子もありません。
ですので「どこに逃げるのか」が分からず、やみくもに逃げ回っても、効果的ではないのです。
それにその人によって「逃げ場があるかないか」は、環境や立場によって大きく異なるでしょう。
そうなると安易に「逃げてもいい」というアドバイスをすることは、その人の事を全く考えていないのではないかと思うわけです。
もちろん「逃げてもいい場面」はあるかもしれません。
しかし、具体的な逃げ場や、デメリットも説明せずに「逃げてもいい」と言うだけでいいのでしょうか?
その通りにして、もし失敗してしまえば、嘘になってしまう場合もあると思います。
「逃げてもいい」は無責任なのか?
もちろん、「逃げる場所」を用意してある人ならば、話は別です。
例えば、親ならば子供に逃げ場を用意してやるというのも、1つの責任だと思います。
しかし、「逃げてもいいよ」といいながら、その後のアドバイスを示さないというのは、いささか無責任と言わざるを得ません。
「学校が辛かったら逃げても良いよ!」
「仕事が嫌になったらやめても良い!」
と言われたとしても、「じゃあ、逃げた後はどうすればいいの?」となるわけです。
結局は、「後は自分次第だよ」と丸投げにされるのがオチであり、責任を取ってくれるは不明なのです。
甘い言葉で釣っておきながら、結局は「都合のいい自己責任論」を押し付けられるというわけです。
だったら最初から「逃げてもいいよ」なんて言うなよって話になります。
逃げるにいいも悪いもない ただの結果論
もちろん、逃げ場を用意してある人が「ここに逃げ込みなさい」というのは、理屈が通ります。
しかし、そうでないのにアドバイスをする人は、いったいどういう立場の人なのでしょうか?
1つ考えられるのは、結果的に「逃げることで成功した人」でしょうか。
たとえば、
「自分も昔は嫌なことから逃げたけど、好きな事に出会えて成功しました!」
「だから、君も逃げていいんだよ!」
という人からすれば、そりゃあ「逃げた方がいい」という結論になるでしょう。
しかし、逃げて良かったかどうかが分かるのは「後になってから」なのです。
逆に、「嫌な事でも逃げずに頑張ったから成功した」という場合も当然あるわけです。
つまり、ただの結果論でしか、逃げた方がいいか悪いのかの判断がつかないのです。
というか、あくまで「逃げる」というのは良いも悪いもなく、手段の1つでしありません。
逃げるという事が適切な場合もあるし、そうでない場合もある、というだけの話なのです。
逃げるという事は、何かを失う事
もし僕がアドバイスするならば、まずは「逃げた後に何を失うか」という事を考えた方がいいと思います。
学校をやめれば、学歴を失います。
仕事をやめれば、お金を失います。
それは、今後の人生は大きく変わってくるような、重要な分岐点です。
ですので、まずは「失うリスク」について考えたうえで、逃げるかどうか判断することが大切になるのではないでしょうか。
逃げた後に手に入るもの
その一方で、逃げる事で手に入るものもあります。
それは「時間」です。
何かをやめれば、その分の時間を持て余すのは自明の理です。
したがって、逃げる事と同時に考えることは「増えるであろう時間をどう使うか?」という事になるのです。
もしも、自由な時間を確保したいのならば、「逃げる」という選択をとってもいいのではないかと思います。
嫌なことをする時間よりも、楽しい時間を増やしたいと思うのは、自然な事でしょうから。
時間の使い方について
とはいえ「自由な時間」の使い方はかなり難しい事でもあります。
「すべて自分で決めなければいけない」という責任と決断力が求められるからです。
例えば、いきなり「今から何でも好きな事をやって良いよ」と言われても、すぐに思い浮かべられるでしょうか?
最初のうちは良くても、長期的な目的がないと「何をすればいいか分からない」と、道に迷うことにもなるのです。
それに、好きな事ばかりやっていたとしても、お金が稼げなければ、そもそも生活が成り立たなくなります。
したがって、時間を有効活用できないと、浪費するだけになりかねないのです。
時間の浪費とは恐ろしいもので、何も得られない上に、ただ年齢ばかりが重なっていくばかりなのです。
だからこそ逃げる前から「自分が時間をどう使いたいか?」を考える必要があるのです。
それを考える時間を確保する場合にも「いったん逃げる」事も適切なのでしょう。
学校や会社による時間管理
一方、学校や会社などの「組織」においては、時間が有効活用できる仕組みとなっています。
責任も決断力も軽減されるうえ、あまり迷う事がない事がメリットです。
ただし、それは「組織に縛られる」というデメリットもあります。
自分のペースではないので、周囲に合わせられないと辛い場所にもなるのです。
この「自由」と「束縛」のバランスに関しては、人によって異なるため、一概にこれが正しいという解決策は存在しません。
僕が言えるのは、逃げた場合の「失うリスク」と「時間が増える事」については考えておいて損はないという事だけです。
「逃げ続ける」というリスクについて
ただし、あまりにも「逃げまくっていても危険である」という事についても触れておきたいと思います。
一度や二度くらい逃げる事が出来たとしても「いつまでも逃げ続ける事」は難しいことでもあります。
なぜなら、年を取るとともに、甘えられる相手がいなくなっていき、「逃げ場」もなくなっていくからです。
そんな最悪の場合に備えるためにも、やはり「逃げないという選択」も考える必要があると思います。
「逃げない」といっても、別に「真っ向から戦う」事だけがすべてではありません。
誰かに相談したり、安らげるスペースを見つけたりと、何かを頼っても問題ないのです。(学生のうちなら猶更。)
また、今やっていることがダメになった場合どうするかという保険や、「逃げ道を確保しておく努力」も非常に大切なのです。
特に、大人になってからは「自分で逃げ道を作る」という責任も必要になるのです。
ちなみに、休んだり人に頼る事は、別に逃げる事ではないので、混同してはいけません。
「逃げてもいい」について 最後に
さて、最後になりますが、僕は人生そのものから逃げるのも、自由だと思っています。
その人の人生の責任を持てないし、救う事も出来ないからです。
ただ、誰もが遅かれ早かれなくなる命には違いありません。
「逃げる」というのは、命ともいうべき「時間」を、どう使うかと言う話です。
僕としては嫌な時間を長く過ごしたくはないので、なるべく楽しくなるように時間をコントロールしていきたいと思っている所存です。
また、最初から目的がなくても、一度逃げることで見えてくる景色もあるかもしれません。
結局は「手段」なのですから、逃げてみて、ダメだったら別の手段を考えればいいというだけの話でもあります。
というわけで、今回のお話は以上となります。
ちなみに、偉そうなことを書きましたが、僕も「逃げた側」の人間です。
今回の記事は、僕自身が学校を辞めたという経験が元になっています。
その経緯についても書いてありますので、ご参考までに。