以前、よく目にすることがあった「何者にもなれない」という言葉。
それはただの「承認欲求」を言い換えただけだと考えています。
「承認欲求を健全に満たせない人間」に対し、皮肉を込めただけの言葉遊びという感じです。
今回は、そんな「何者にもなれない」という表現について考えていきたいと思います。
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すでにあなたは何者かになれている
そもそも、誰もがすでに「何者」にはなれています。
もっといえば、人は産まれた瞬間から「何者」かになるのです。
なぜなら、誰もが「親にとっての子供」だからです。
それから誰かの友達であったり、誰かの教え子であったり、国民の1人であったりします。
僕からすれば、あなたは「読者」なわけです。
つまり、自分から求めなくても、客観的に「あなたという人間」は定義されるのです。
なぜ、何者かになりたいのか?
けれど、その答えに納得がいかない方もいらっしゃると思います。
では、なぜ「何者かになりたい」と、嘆くのでしょうか?
それは「客観視とのズレ」が問題になると思います。
例えば、自分ではそうありたいのに、他人はそうは思ってくれないくれない事は多々あると思います。
「本当は自分はこういう人間なのに、誰も分かってくれない」
とか、
「他人からもっと評価されたい」
とか。
あるいは、「○○さんみたいに有名になりたいのになれない」とかですかね。
そうしたズレを埋めたいからこそ、「何者かになろうとする」と考えられるのです。
しかし他人の定義はあてにならない
しかし、それはあくまで「他人を主体にした考え方」でしかありません。
そうやって他人からの評価をもらおうとすると、他人に振り回されることになるのです。
その例として、「ろばを売りに行く親子」という寓話を描いた風刺画があります。
どんな立場であっても、他人からの否定・批判はつきものだという意味合いが込められています。

他人の言いなりになってあれこれ改善したところで、また別の否定・批判が生まれるのです。
他人の評価なんて言うのは、それだけ当てにならない曖昧なものなのです。
周囲に振り回されることで、本当に自分の望む姿になれるのかは、甚だ疑問であると言えるでしょう。
「自分」を主語にしてもいいって事
それでも、他人に振り回されない方法があります。
それは「自分で自分を認める」という方法です。
「自分は自分の事をこう思う」
それで十分ではないでしょうか。
良い面だけでなく、嫌だと思う面もすべてひっくるめて「自分」なのではないでしょうか。
つまり、「何者か」というのは「自分」という主語で定義することが可能なのです。
ただし、今の自分に納得がいかない場合もあるでしょう。
その時に問題になるのが「理想の自分」を思い浮かべてしまう事です。
理想の自分に比べると「今の自分」というのは認めがたいものになるかもしれません。
しかし「自分を認めない」限りは、やはり「他人からの評価」に依存しがちになってしまうのです。
理想を求めても仕方がない
いつまでも理想を追い求めていたら、永遠に「何者にもなれない状態」は続くと僕は思います。
そうならないための方法が、「理想への敗北を認める事」だと僕は思います。
理想の自分への敗北を認めることで、「今の自分」や「現状」が見えてくると思うのです。
例えば、「自分は有名にもなれなかったし、欲しい才能もなかった」という敗北を経験して心が折れてしまうような経験は、大抵の人が通る道でしょう。
どんな人であれ、100%勝ち続けるなんてことはほぼ不可能だからです。
けれど、敗北を認める事で何かを学び、「次はどうするか?」という自発的な意思を持った時に「自分」というものに近づき「何者か」になっていくのだと僕は考えています。
一方、「負け」を認められない場合は、いつまでたっても「本当の自分はこんなものじゃない!」と言い続けることになるでしょう。
「たった1つのもの」に固執するわけですから、それはまるで0か1のような生き方であり、1になれない限りずーっと0のままなのですから。
もちろん、人生が0か1かなんてわけではありません。
かの有名な歌にもありますが、「人間はNo1にならないといけない」なんてことがあるでしょうか。
それでも、長所や出来る事の1つや2つはあるはずです。
逆に「自分は全く何もできない」なんて人の方が珍しいくらいで、何かしら出来る事があるとは思います。
それで「満足できるのか否か」が問われる事になると僕は思うのです。
もちろん、現状でそれなりに満足できるのであれば、すでに「何者」にはなれていると思います。
(というか、現状で満足しているなら、いちいち「自分が何者かどうか」なんて考えてないでしょうが。)
他人からの評価は重要だけどね
ただし、「自分さえよければいい」という発想は、社会的にはNGな考え方でもあります。
他人に迷惑をかけるのが是になったり、自己満足で終わる可能性もあるからです。
そのため「全く他人からの評価を気にするな」とは、僕は思いません。
そうならないためには、他人に貢献したという「実績」だと思います。
少なくとも仕事をしていれば、他人の役に立っているわけで、それこそが身近な実績になると思います。
たとえ、万人からの評価は得られなくても、目の前の1人を満足させられたら、それだけでも素晴らしい事ではないでしょうか。
そもそも、評価なんて言うのはあとで勝手についてくるもので、「実績」を見て人は評価するのです。
ようは、他人からの評価をもらおうとするのではなく「自分が積み上げてきたもの」が大事なのだという事です。
そのためには「自分も大切にするし、相手も大切にする」という考え方が必要になってきます。
というか、その両立が出来ないと、「依存気質」もしくは「自己満足」で終わる可能性が高いです。
どちらも満たしてこそ、充実した人生ってもんじゃないでしょうか。
ですので、「何者にもなれない」と嘆いている暇があったら、今出来る事を一生懸命やった方が良いのではないかと思う次第です。
自分は何者であるか?
それでは、最後になりますが、あまりに「自分は何者か」という事に固執するも必要ないと思います。
「何となく自分はこういうのが向いている」程度で十分かと。
なぜなら、過度に「自分」を求めすぎても、待っているのは思考の限界でしょうから。
例えば「自分とは何か?」「存在とは何か?」「自分と他人の違いは何か?」「意識とは何か?」「というか、この世界は本当に実在するのか?」とか…。
自分を追い求め続けると、もはや高度な哲学、もしくは悟りを目指す宗教の話になってきます。
そもそも「自分」ってそんなにハッキリしたものでしょうか。
例えば、昨日の自分と今日の自分は果たして同一人物なのでしょうか。
それが1年前の自分、10年前の自分と比較した時「すべて全く同じ自分」だと言えるのでしょうか。
「自分」という存在は日々変化しているでしょうし、それを果たして「同じ自分」と言い切って良いのでしょうか?
(ようは「テセウスの船」的な話。)
それだけ曖昧なものを「確固たる自分」として捉えていいものなのでしょうか。
「われ思うゆえにわれあり」という言葉もありますが、その一方で「万物流転」とか「色即是空 空即是色」という概念もあるわけです。
確固たる自分は存在するかもしれないし、しないかもしれないわけで、未だに証明されていません。
そして、そんな事ばかり考えていると、永遠に自分探しをする事にもなりかねないのです。
もし今後も地に足を付けた生活をしていきたいと思うのならば、自分探しもほどほどにして実生活に目を向けた方が建設的だと僕は思っている次第です。
(もちろん哲学者、求道者を志すならば話は別ですが。)
というわけで、今回のお話はおしまいとなります。
何かしらのご参考になれば幸いです。