以前、よく目にすることがあった「何者にもなれない」という言葉。
それはただの「承認欲求」を言い換えただけだと考えています。
「承認欲求を健全に満たせない人間」に対し、皮肉を込めただけの言葉遊びという感じです。
今回は、そんな「何者にもなれない」という表現について考えていきたいと思います。
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君は敗北を認められるか?
「自分は有名にもなれなかったし、才能もなかった」
敗北を経験して心が折れてしまうような経験は、大抵の人が通る道でしょう。
どんな人であれ、100%勝ち続けるなんてことはほぼ不可能だからです。
けれど、そうした「敗北」を認められるかどうかは、人によって異なります。
敗北を認める事で何かを学び、「次はどうするか?」という自発的な意思を持った時に「自分」というものに近づき「何者か」になっていくのだと僕は考えています。
一方、「負け」を認められない場合は、いつまでたっても「本当の自分はこんなものじゃない!」と言い続けることになるでしょう。
そんな風に負けを認められないままだと、「何者かになる」というチャンスを失うわけです。
「たった1つのもの」に固執するわけですから、それはまるで0か1のような生き方であり、1になれない限りずーっと0のままなのですから。
そして1になることがかなわなかった時、「何者にもなれなかった」という言葉が使われるのだと僕は思っています。
すでにあなたは何者かになれている
もちろん、人生が0か1かなんてわけではありません。
もっといえば、そもそも人は産まれた瞬間から「何者」かにはなれていると思います。
なぜなら、誰もが「親にとっての子供」だからです。
もしくは、誰かの友達であったり、誰かの教え子であったり、国民の1人だったりします。
僕からすれば、あなたは「読者」なわけです。
つまり、自分から求めなくても、客観的に「あなたという人間」は定義されるのです。
これであなたも「何者」になれましたね。ヨカッタヨカッタ。
なぜ、何者かになりたいのか?
・・・と言うのは冗談で、そう単純な話ではないのは重々承知しております。
では、なぜそれでも「何者かになりたい」と、嘆くのでしょうか?
それは「客観視とのズレ」が問題になると思います。
「他人からもっと評価されたい」とか、「他人よりも優れていたい」とか。
自分ではそうありたいのに、他人はそうは思ってくれない。
そうしたズレを埋めたいからこそ、「何者かになろうとする」と考えられるのです。
しかし他人の定義はあてにならない
しかし、それはあくまで「他人を主体にした考え方」でしかありません。
なぜなら、「他人から○○だと思われたい」という思考からスタートしているからです。
けれど、他人からの評価をコントロールするというのは、非常に難しい事です。
先ほども言ったように、「誰が」という主語が変わる事によって、「あなた」の定義は異なるからです。
仮に有名になれたとしても、全員から評価されることはないはずです。
貶めたり妬むような人間も現れるでしょう。
それに、他人の目を気にするわけですから、「他人の言いなり」とか「他人のおもちゃ」にされかねない思考でもあります。
もし「他人の言いなりになれて幸せ」だと思うのならば、すでに「従者」という「何者」にはなれてるので、問題はないでしょう。
けれど、他人の評価よりも「自分が主体として生きたい」と思うのならば、「他人から○○だと思われたい」という思考はやめた方が良いと言えます。
「自分」を主語にしてもいいって事
「他人からどう思われているか」という事はコントロールできない以上、考えても仕方がありません。
唯一コントロールできるのは「自分」です。
「何者か」というのは「自分」という主語で定義することも可能と言うわけです。
ところが、自分を自分で定義しようにも「今の自分に納得がいかない」場合もあるでしょう。
その時に問題になるのが、「理想の自分」を思い浮かべてしまう事です。
理想の自分に比べると、「今の自分」というのは認めがたいものになるでしょう。
ただし、いつまでも「○○になりたいという理想」を追い求めていたら、いつまでたっても「何者にもなれない状態」は続くと僕は思います。
そうならないための方法こそが、「敗北を認める事」に他ならないのです。
理想の自分への敗北を認めることで、「今の自分」や「現状」が見えてくるわけです。
そして、敗北を認めた時に「今の自分」という何者になれるわけです。
それでも、理想を追いたいのか、別の理想を見つけるのかは人によりますが。
また、現状の把握をしてからこそ、初めて「打開しよう」と思えるのではないでしょうか。
一方で、理想だけ抱いていても何も得られず「理想に向かって挑戦し、負けたことで何を学ぶか」が大切ということです。
もちろん、現状でそれなりに満足できるのであれば、すでに「何者」にはなれていると思います。
(というか、現状で満足しているなら、いちいち「自分が何者かどうか」なんて考えてないでしょうが。)
他人からの評価は重要だけどね
とはいえ、ある程度「他人からの評価」も気にすることは大切です。
特に仕事なんかでは、「相手の欲求」を満たす事が必要になるからです。
しかし、それは「自分」というベースがあっても両立は可能です。
「自分のしたい事をして、相手も喜んでくれる」という生き方もあるのです。
あくまで「自分は自分」であり、生きるための手段として「相手の欲求を満たす」でもいいのです。
そうすれば、おのずと評価もされる事もあるでしょう。
一方、自分が満足していないと、長続きはしませんので、やはり「自分」も大切になるのです。
というか、その両立が出来ないと、「依存気質」もしくは「自己満足」で終わる可能性が高いです。
どちらも満たしてこそ、充実した人生ってもんじゃないでしょうか。
つまり「自分が○○したい」と言う主体と、「他人を満足させること」という客観的な評価が必要になるという事です。
自分のしたい事って何よ?
また、世の中には「やりたいことが見つからない」と言う人もいます。
そこで重要になるのが、「負け」ではなく「勝てること」を見出す事です。
負ける事で「自分の力量」というのはある程度見極められます。
けれど、負けっぱなしでいいわけがないですし、挫折を味わいまくるだけでは、夢も希望も無くなります。
そうならない為には、「何となく楽しい」とか「これだったら続けられそうかも」と思える事に出会う事です。
そうやって「自分でも勝てそうな分野で戦う」というか、「そんなに負けない事をする」とでも言えばいいのでしょうか。
人生は0か1ではないのですから、「何となくできそう」という曖昧な長所の1つでもあれば、御の字だと僕は考えています。
逆に「自分は全く何もできない」なんて人の方が珍しいくらいで、人間何かしら出来る事があるとは思います。
別に、何もできないならできないでそれは個性であり「出来ない人」という何者にはなれます。
他人からの助けを求めるというのも、立派な生き方だと僕は思います。(なぜなら、それを助けようとする他人にとっての存在意義にもなりえるからです。)
他人との比較も大事ってこと
もちろん、高み目指したいと思うならば、ひたすら戦い続けるという道も、カッコいいものではありますけどね。
アスリートや、棋士、プロゲーマー、社長などなど常に上を目指す「プロフェショナル」のような生き方には、人を惹きつけるものがあります。
けれど「自分も本当にプロフェッショナルになりたいか?」と問えば、そうではないかもしれません。
「自分にはなれない」とか「本当は別になりたくない」と思うならば、目指さない方が良いと思います。
しかも、プロフェショナルのどこに憧れるのかっていえば、結局は表面的なもので「自分も名声や評価が欲しいとか」とか、その程度だったりします。
プロフェショナルが金やちやほやされるためだけに、仕事を頑張っているのでしょうかね?
そんな風に、他人と比較することでも「自分のできる事」というのは見えてくるものです。
よく「比較は良くない」みたいな意見もありますが、比較は大事です。
問題は「比較しても、いちいち凹むな」ってことです。
それもまた「敗北を認める」という事でもあり「弱さを知り尽くす」という事もまた、「自分のやりたいこと」に近づく手段だと僕は考えているのです。
考察することも大事で、自分はプロの「どこ」に憧れるのか、「もし」プロの才能があったらどうなるかとかを考える事もオススメです。
そして、自分に才能がないことに気づけば、ただのない物ねだりでしかないという結論に至るとは思いますが。
「自分ハ自分ダヨ」っていう超絶陳腐な収束
ただし、あまりに「自分は何者か」という固執は必要ないと思います。
「何となく自分はこういうのが向いている」程度で十分かと。
むしろ、過度に「自分」を求めすぎても、待っているのは思考の限界でしょうから。
「自分とは何か」、「存在とは何か」、「意識とは何か」、「というか、この世界は本当に実在するのか」とか…。
自分を追い求め続けると、もはや高度な哲学、もしくは悟りを目指す宗教の話になってきます。
そもそも「自分」ってそんなにハッキリしたものでしょうか。
例えば、昨日の自分と今日の自分は果たして同一人物なのでしょうか。
それが1年前の自分、10年前の自分と比較した時「すべて全く同じ自分」だと言えるのでしょうか。
自分と言うのは日々変化しているでしょうし、それを果たして「同じ自分」と言い切って良いのでしょうか。(ようは「テセウスの船」的な話。)
それだけ曖昧なものを「確固たる自分」として捉えていいものなのでしょうか。
「われ思うゆえにわれあり」という言葉もありますが、その一方で「万物流転」とか「色即是空 空即是色」という概念もあるわけです。(その意味はご自分でお調べください。)
確実な自分は存在するかもしれないし、しないかもしれないわけで、未だに証明されていません。
それに、常に変化するであろう自分を追い求めるという事は、永遠に自分探しをする事にもなりかねないのです。
もし今後も地に足を付けた生活をしていきたいと思うのならば、自分探しもほどほどにして実生活に目を向けた方が建設的なのです。
(哲学者、求道者を志すならば話は別ですが。)
そこで、日常生活へ戻るために便利な言葉が「自分は他の何者でもない」という言葉です。
僕自身も「考える事」を多少なりとも諦めたことで、「自分って、まぁ、そういうやつだよね」みたいな落としどころに持っていきました。
つまり、僕は自分の思考に敗北したのです。
それを認めて限界が分かったところで、やっと自分が見てきたのです。
その一方で、ゲームが好きだったり、文章を書くのが好きだったりすることを発見し、それを仕事にしているというのが「僕」です。
ですので、僕が言えるのはその程度の答えであり、「本当の答えを見つけるのはキミだ!」的な事しか言えないのです。
ただし、一応僕なりに「何者かになる」ために出した答えは「限界を知り、敗北を認める」という事です。
そして、「何となく好きなものと出会えるように行動する事」です。
行動もなしにとやかく言ってんじゃないですよ
ダメなのは「何者にもなれない」と言いながら、何の行動もしようともしない事です。
何かになりたいんだったら、何かを始めない事には意味を成しません。
「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」ですね。
とはいえ、いつもいつも上手くいく保証はどこにもないですけどね。(そりゃあそうだ)
いつもいつでも本気で生きるという事も、「自分」を見つけることになるかもしれませんね。
お互い、マスターオブライフを目指しましょう。
というわけで、今回のお話はおしまいとなります。
何かしらのご参考になれば幸いです。