今回のテーマは「自己責任論」です。
ここでの定義としましては「自分の行動の責任は自分にあること」、という考え方とします。
確かに、一見すると自己責任論というのは、一理ありそうな気もします。
しかし、果たしてそれがすべて正しいのでしょうか?
そこで今回は自己責任論の疑問点や「何が悪いのか?」について考えていきたいと思います。
責任を負うという事について
まず「責任を負う」という事の意味について触れておきたいと思います。
その時、2つの場合があります。
それは、1人の人間が背負う場合と、複数の人間が背負う場合です。
1人で責任を負う場合というのは、個人的な事に限られます。
具体的には、体調管理なんかがそうです。
例えば、寝不足で日中だるくなったり、食べ過ぎて過度に太ったりすれば、それこそが「自己責任」と言えます。
または、何かに挑戦して失敗したり、危険だと分かっていることをしてケガをすれば、それもまた自業自得と言えるでしょう。
ですので、「明らかな自業自得」ならば、「自己責任」と言ってもいいかもしれません。
ただし、時としては、1人の責任ではない場合も存在しているのです。
そこで焦点となるのは、「本人だけの問題なのかどうか」という線引きについてです。
例えば、寝不足な人だとしても、「本当に本人だけのせいか?」と言われれば、違うかもしれないのです。
もしかしたら、仕事で無理やり残業ばかりさせられているせいで寝不足なのかもしれません。
あるいは周囲からのプレッシャーや不安にかられ、不眠症になっているのかもしれないのです。
それは本当に完全に「自己責任」と言い切れるのでしょうか?
僕はそうは思いません。
例えば、残業があるのは、会社全体の体質に問題があるかもしれません。
または、悪意を持った人間のせいで余計なストレスを負わせられたため、不眠症や過食になることもあるわけです。
ですので、一見すると「自己責任」に見えるようなことでも、完全な自己責任などとは簡単に言い切れず、「周囲の環境も影響している」場合もある、という事です。
つまり、本当に「1人だけの責任」なのか「複数の人間の責任なのか」の違いによって、安易に「自己責任」とは言えなくなるのです。
自己責任論の問題点
もしも、上記の意見に反論があるとすれば、以下の例が挙げられます。
「残業ばかりの職場にしか勤められない方が悪い」
「周囲のプレッシャーに影響される方が悪い」
という感じです。
確かに、「自己責任論」で考えるならば、それもまた一理あるかもしれません。
しかし、それはいうならば「全部お前が悪いんだ!」といっているだけであり、「何の解決策にもならないのではないか?」という疑問が浮かぶのです。
仮に、全てが「自己責任」と考えた場合、それは本人に問題を丸投げにするだけであり、「共に問題を考える」という選択を失ってしまうのです。
もし、それが自己責任論の行き着くところだった場合、他人の失敗について、いちいち「自己責任だ!」などと大げさに指摘する必要はあるのでしょうか?
それはただ「人を追い詰める考え方」にしか見えないのです。
もし、人を追い詰めることでいい結果を出せればいいかもしれませんが、自他を責めたところで、いったい何になるというのでしょうか。
そんな風に、「責任を当人だけに丸投げする」というのは「無責任」ではないでしょうか?
責めて解決できるならともかく、1人で解決できない問題まで「すべて自己責任」として背負えば、最悪の結末も容易に想像できるという、かなり恐ろしい言葉でもあるのです。
能力至上主義の弊害
では、なぜそもそも「自己責任論」が一部で蔓延するようになったのでしょうか。
それは、世の中には一定の層の「成功者」と呼ばれる人間が存在しているからだと僕は思います。
例えば、世の中でそれなりの成功を収めた人は、その人の努力や実力によるものだったりするでしょう。
その一方で、世の中はそんな風に成功できる人ばかりではありません。
ところが、成功者からすれば、「俺はこんなに努力してるのに、みんなはなぜ出来ないんだ?」という風に見られるかもしれません。
それが転じて、「みんなが成功しないのは、努力が足りないせいだ!」という発想に至ることがあります。
また、「努力すればだれでも成功できるのに、怠けるなんて許せない!」みたいな考えを持つ人もいるでしょう。
そして「成功者」というマウントを取り、「自己責任論」を振りかざす事によって弱者を責めているのだと考えられるのです。
一方、弱者にとっても「強者の言う事」を信じる事によって洗脳され、「自己責任論は正しいんだ!」と蔓延したのではないか、と考えられるのです。
それが現在はびこっている「自己責任論」の実態だと僕は考えています。
しかし、はたから見れば理不尽極まりないでしょうし、その理論には明らかにおかしい点があります。
なぜなら、人間の能力には個性があるという点を無視しているからです。
人には、それぞれに得意不得意があり、誰でも必ずと言っていいほど失敗するように出来ています。
または、やむ負えない事情、境遇や生まれや育ちなどにより、1人の人間にどうこう出来る範囲というのは、それぞれ異なるのです。
それなのに、全てを「努力不足」などとと片づけてしまう事は、人間の持つそれぞれの能力や個性、立場などを完全に無視しているという事となります。
仮に「努力が足りないせいだ!!」と言って、他人を責めることによって得られるものはあるのでしょうか?
誰にだってミスや間違い、能力不足なんて、アラ探しすればいくらでも出てきます。
ですので、そういう意味での「自己責任論」を振りかざす人というのは、「人間はみんな同じ能力を持ち、同じ考えや同じ事が出来る平等な生き物」だと思い込んでいる人くらいなのです。
そんな「自分と同じクローン」のような人間だけで、社会が成り立っているとでも言うのでしょうか。
もちろん、そんなわけありません。
つまり、「自己責任論」を他人に適用するという事は、何の解決策も生まないとるに足らない理論といえるのです。
自分を責める意義について
もしくは、他人を責めるのではなく、「全部自分が悪いんだ!」と言って、自分だけを責め続ける人も世の中に入るでしょう。
自分の責任を感じるのは結構ですが、その責任は本当に「自分だけ」なのでしょうか。
確かに、周りを見渡せば「頑張っている人だらけ」であり、助けを求めずにストイックに生きている人もいるかもしれません。
むしろ、「自分の事だけで精いっぱいで、他人を助ける余裕なんてない!」みたいな人もいるかもしれません。
しかし、だからと言って、自分を責めるだけでは何の解決にもならないと思います。
もしも、そういう複雑な悩みがあるならば、それは決して自分だけの責任とは思えません。
「自分」にも責任もあるかもしれませんが、同時に「周囲の環境」にも問題がある可能性は十分あるのです。
ですので、「自分が悪い点」と、「環境の問題点」の双方の見極めが何よりも重要だと、僕は考えています。
(恐らく、「自己責任だろ!」みたいなことを言う人は、「環境のせい”だけ”」にしている人を咎めたいだけなのかもしれませんが。)
もちろん、自分は多少変えられたとしても、「環境」を変える事は容易ではありません。
けれど、それでも環境を見つめることで、より具体的な解決策が見える場合もあるのです。
例えば、「周囲に自分の意思を訴えかける勇気が必要だ」、というのも1つの解決策です。
あるいは、「この環境は自分には合っていないから、別の道を探すために、一度逃げた方がいい」という場合もあるでしょう。
それが正しい選択なのかはさておき、「自分」と「環境」双方の問題が分かって初めて「じゃあ、自分はどうすればいいのか?」という自由が生まれるのです。
そこでもし「自分のせいだけ」にしていても、結局は何の解決もしないでしょう。
もちろん、「環境のせいだけ」にしていても、同様のことが言えます。
しかし、両方をじっくり観察することによって、解決策はいろいろ挙げられると思います。
その際、他人を頼る場面も出てくるでしょうし、必ずしも「自分だけでなんとかする」ことが正しいとは限りません。
先ほどにも言ったように、人にはそれぞれの得意不得意や個性の違いが生じているのですから。
自分の不得意なことを、得意な他人に協力してもらう事の、何が悪いというのでしょうか。
確かに「他人に頼らない」というのは立派かもしれませんが、出来ない事を無理やり1人でやろうとするのは無責任なのです。
ですので、「自分にできる範囲の事」そして「自分ではどうしようもないこと」に折り合いをつけることによって、初めて「自分らしい生き方」というものが見えてくると思います。
そして、そういう「自分らしい生き方」というのは、自他を責めるだけの思想ではなく、「どうすれば良くなるのか?」というポジティブな気持ちが強く求められるのです。
誰もが自由と責任を持っている
というわけで、「自己責任論」のお話は、あらかた終了しました。
ただ、せっかくなので、もう少し「自由と責任」についてお話させていただきたいと思います。
実は、僕たちは誰もが「責任」を背負って生きていると僕は考えています。
では、それは何の責任なのかというと、「生きる」という自由に対する責任です。
例えば、僕たちは、別に死んではいけないというルールはなく、たいていの場合は自分の意思で生きていると思います。
つまり、僕たちは知らず知らずのうちに自由に「生きる」という選択をしているのです。
そうした「選択」をしているからこそ、生きることによってあらゆる「責任」が生じているのです。
それは「社会」と呼ばれる共同体全体を見れば分かりやすいと思います。
社会というのは、1人1人の自由と責任が複雑に絡み合って出来ています。
例えば、人間の生活は、科学や文化の発達により、どんどん便利で豊かにになっていきました。
しかし、その一方で、自動車は運動不足を産み、手軽な食事は栄養不足の原因となり、その結果として死を早めることにもなる事にもつながります。
さらに、人間が発展することで地球の資源は確実に減り、環境は住みづらい方向へと変えられていきます。
これらもまた、自由に生きることに対する責任だと僕は思うのです。
さらに言えば、社会問題もそうです。
支配や戦争、差別やいじめ、労働や格差など、ありとあらゆる問題は、果たして「誰の責任」なのでしょうか。
自分には全く関係がないと言い切れる人はいるのでしょうか?
僕もその問題に加担する1人の人間でありますし、僕1人だけのものでもないのです。
とはいえ、それは簡単にどうこうなる問題でもないという事は重々承知していますし、「本当の意味で責任を取る事」は人間には出来ないと僕は思います。
なぜなら、僕たちが傷つけたり、殺してきた動植物の命は、まったく元通りにすることは出来ないのですから。
それでも僕たちはこれからも自由に生きるわけですが、そこには常に「責任」が身近にあるのです。
つまり「自己責任だ」と他人に説教している人間が、自分自身の責任を全うできているかと言えば、甚だ疑問なのです。
つまり、何が言いたいかと言えば、
「自分の責任すら考えたことがない人間が、他人の責任にも安易に口出しするんじゃないですよ」って事です。
ですので、自分や他人を責め苛む暇があれば、もっと建設的な事をすればいいのではないかと思っている次第です。
自己責任という言葉の本来の使い方
さて、最後に余談ではありますが、本当の意味での「自己責任」という言葉を考えていきたいと思います。
この「自己責任」という言葉は本来「注意喚起するため」に使われるものだと僕は思います。
例えば「投資をする際は自己責任でお願いします」などと使われることがあります。
また、「アドバイスはするけど、実行するのは自己責任で…」という予防線を張るような意味でも使ったりもします。
つまり、「自己責任」という言葉は、あくまで「お願いする立場」として使う方が自然なのです。
それを「自己責任だろ」みたいな他人を責めるような使い方は、誤用か悪口にしか聞こえないのです。
ですので、今後「自己責任論」という言葉への捉え方が、少しでも変わっていけばいいなと僕は思っております。
というわけで、今回のお話はおしまいとなります。
読んでいただき、ありがとうございました。