嫌なら見るなは正論?的外れ? 対処法を考える

嫌なら見るな

インターネット利用者なら、誰もが一度は通ったであろう「嫌なら見るな」という言葉。

今さらながら、それが果たして的外れな意見なのか、正論と呼べるものなのかを、今回改めて考えていきたいと思います。

 

嫌なら見るなが的外れな理由

まず、なぜ「嫌なら見るな」が的外れと言われているのか、4つほど例を挙げていきたいと思います。

 

①自由の否定

1つ目。

まず、嫌なものだろうが、いいものだろうが、見るも見ないも、こちらの自由ではないでしょうか。

それなのになぜ「見るな」と、否定されるのか?という非常に単純な疑問が最初に浮かびます。

自由を制限する権限は、どなたが持っているというのでしょうか。

 

また、自由に見て、自由に感じたまま否定したとしても、それが悪いというわけではないでしょう。

それなのに一個人から「見るな」と否定されたり、命令されるには、正当な理由がない限り、制限することは出来ないでしょう。

 

②見なければ判断がつかない

2つ目。

そもそも視覚や聴覚の情報がまず先に来て、そこで初めて「嫌だ」という感情が生まれます。

情報ゼロの状態から「嫌だ」という感情は生まれないでしょう。

 

ですので、「見ると嫌な気持ちになると分かっている」という前提がなければ、「見ない」という判断が出来ません。

見たうえで僕たちは「自分が嫌だったかどうか」を判断できるのです。

 

否定意見を認めたくないだけ?

3つ目。

否定意見に対し、「嫌なら見るな」というのは、否定意見を否定する行為となります。

では、なぜ否定意見を述べることがダメなのでしょうか?

 

否定意見は言い換えれば「自分とは違う視点」でもあるわけで、時として尊重される事もあるのです。

 

もちろん、行き過ぎた否定については、倫理感を問われるところでもありますが、だからといって「否定意見がすべてだダメ」とは言えないのです。

 

つまり、否定意見が尊重されることは十分あり、それを否定するのはいかがなものでしょうか、という事です。

 

④「嫌なら見るな」を言ってはいけない人

4つ目。

「嫌なら見るな」という言葉を、立場上使うのがおかしい人もいます。

それは広い意味での「創作物」を不特定多数に公開している人です。

 

何かを公開するということは、肯定もあれば否定されることもあるでしょう。

それが「公開する」という自由に対する「責任」でもあると僕は思うのです。

 

にも関わらず「私は公開するけど、嫌なら見るな!」というのは、かなり自分勝手ではないでしょうか。

場合によっては「否定が嫌ならば、最初から公開しなければいい」というそもそも論にも発展することもあるでしょう。

 

であれば、「嫌なら見るな」ではなく「○○という意図で公開しました。」という説明がなされてもいいと思います。

(もし、それでも誹謗中傷などがあってしまえば、それはまた別の問題となるとは思いますが)

 

嫌なら見るなは本当に正論?

さて、以上が嫌なら見るなが的外れな理由についてです。

続いては「嫌なら見るな!」という言葉が正論(?)となる説を考えていきたいと思います。

 

①事前情報によって判断できる説

例えば、映画などでは、前評判だったり、口コミなどで、あらかじめ情報を得ることもできます。

そうした情報をもとに、「最初から見ない」という判断も可能となるはずです。

 

そこで「つまらなそう」と判断した人が、わざわざ「見る」という選択をした場合、「なぜ嫌なものを見るのか?」という疑問が生まれると思います。

それでいてさらに「否定意見」まで言われてしまえば、「なんで嫌なものを見てまで、否定するの?」という疑問になるでしょう。

 

また、ドラマやアニメや漫画などの「連続している作品」の場合、途中で視聴をやめることも可能なわけです。

それを「つまらない」と思いながらも購読して文句を言う行為も、見方によっては、不毛に映るでしょう。

 

そうした人を咎める意味で、「嫌なら見るな」という言葉につながると考えられます。

 

確かに、そう考えればもっともかもしれませんが、だからといって咎めることが一概に正しいとはいえません

 

というのも、「つまらない」と言われている作品を、実際にその目で確かめるという行為は、むしろ「検証」と呼ばれるものであり、それを否定するのはいかがなものでしょうか。

 

また、いくら好きなものだからと言って、全部を100%肯定出来るわけではないと思うのです。

好きだからこそダメな面も見えたり、ダメ出しをしたくなったり、むしろそういうダメなところを愛している、などという人間の複雑な心理なんて考えればいくらでも思い浮かぶわけです。

 

つまり、「人によって作品の楽しみ方は千差万別」であるため、短絡的に「見るな」といって命令する権利は誰にもないと思うのです。(検閲でもしない限り。)

 

②否定意見に対する否定のため説

これは、「相手が最初に否定してきたから、こっちも同じように否定してやる!」という考え方です。

そして、「否定意見に対する否定」をすることで、報復という形で、相手を論破しようという試みです。

 

ただ、これは正論云々の話ではなく、単なる「売り言葉に買い言葉」程度の話だと思います。

例えば、「あなたはバカだ!」という言葉に対し「バカっていう方がバカだ!」と言い返すのと同じで、これは果たして「正論」と言えるのでしょうか?

 

それはどう見てもただの口喧嘩にしか見えず、「ただの時間の無駄」というのが本当の正論なのではないでしょうか。

それでもし、口喧嘩が有益だと思うのならば、積極的に「嫌なら見るな!」を使うのも吉かもしれません。

 

③過激すぎる発言を咎めるため説

否定意見だとしても、それが差別的であったり、過激すぎる罵詈雑言については、気持ちが良くなるものではありません。

そういった度が過ぎる言葉に対しては、「嫌なら見るな」というのも1つの反論となりえるかもしれないです。

 

しかし、そういう人に対しては、あえて面と向かって相手にする必要はないのです。

例えば、リアルでも悪口が大好きな人もいたりしますが、そういう人を真っ向から否定するよりも、実際は距離をとる方が正解だったりするわけです。

また、SNSでは通報機能もあったりするので、それを活用するという手段もあるのです。

 

ですので、わざわざ「嫌なら見るな」といって同じ土俵に立って否定しあうよりも、適切な行動はほかに考えられるでしょう。

 

そこでもし「相手の言動を改めさせたい!」と思うのは、それもまた一方的な都合でもありますし、第一、そんな言葉では相手に響かないと思います。

実際に相手が「はい、そうします」といって素直に納得する例は、全く見たことがありません。

 

嫌なら見るなは正論ではない?

さて、以上を見る限り、「嫌なら見るな」は正論なのでしょうか?

いえ、そもそも正論というのは、どんな相手に対しても「確かにそうだな」と納得させることが出来る「正しい道理」があるからこそ正論と呼ばれるのです。

 

もし「嫌なら見るな!」が正論だったとすれば、どんな人も「納得できる」はずです。

 

しかし、納得しない相手が多数いるという事は、「そもそも正論じゃない」、つまり「道理にかなっていない」ともいえるのです。

 

実際に、「嫌なら見るな」という言葉が生むのは口喧嘩や論争であり、けっして「納得」とは程遠いものでしょう。

よって嫌なら見るなは、正論ではない、という考え方もできるのです。

 

「嫌なら見るな」に対する解決策

さて、「嫌なら見るな」という言葉を、ここまでいろんな切り口で書いてみました。

(たくさん書いたので、嫌なら見るなという言葉を見るのが嫌になった人もいるかもしれません)

 

ただ、僕としては「嫌なら見るな」が正論だろうが的外れだろうが、どちらでもいいと思っています。

それよりも、「嫌なら見るな論争」がいつまでも続けることが、一番の不毛なことだと僕は思っているからです。

 

そんな不毛な争いを避けるならば、「嫌なら見るな」という発言以外での解決策を求める他ないのではないでしょうか。

 

ただ、もしどうしても「嫌なら見るな」という言葉を使いたいのならば、「そんなに嫌なら見るのやめたら?」、という提案に置き換える、という方法が挙げられます。

「見るな」ではなく「見なくてもいいんじゃない?」という提案という形ならば、相手に選択や思考の余地を与えることにもなり、真正面からの衝突は避けられるかもしれません。

 

しかし、それよりももっと有効な解決策として、「否定的な意見を無視」するという方法が挙げられます。

 

これはつまり「嫌なら見るな」と他人に指摘する前に、「嫌なら見ない」と言う言葉を、そっくりそのまま自分で実行すれば良いのです。

そうすれば、例え否定的な意見を見ても、相手にしなければ、争いは起きないのです。

 

例えるならば、ツイッターやLINEで嫌いな人のアカウントをミュートにしたり、ブロックする行為と似ています。

嫌な意見を見たくないなら、まずは自分から実践しましょうよ、という事です。

 

しかし、実際はいくら見ない努力をしても、目に入ることは多数あるわけで、結局「見ざるを得ない」事も多々あるでしょう。

ただ、もしうっかり見てしまったとしても、それ以上のことは考えず、あえて戦う必要はないのではないでしょうか。

 

その結果、自分にとって良い意見だけをピックアップすることが出来、争いに加担することもなくなり、平和な世界が訪れると思います。

 

否定的な意見を聞くメリット

しかし、過度に否定的な意見を無視する、という事は、ややデメリットもあります。

それは、「他人から学ぶ事を放棄する」と言う選択でもあるからです。

 

すると、どうなるかといえば、知らず知らずのうちに「自分たちが正しい」「自分の意見は絶対だ」という一方的な価値観に捉われがちになってしまう危険性もはらんでいるのです。

(ちなみに、この現象はエコーチェンバーとも呼ばれています。)

 

その結果、1つの側面からでしか物事が見えなくなり、視野が狭くなる事もあるのです。

 

では、視野が狭くなると、どうなるでしょうか?

例えば、自分の間違いを認められなかったり、同じ考えに固執してしまうので、自分の中で起きる変化や成長が鈍ることにつながるでしょう。

 

確かに、時と場合によっては「争いを回避する」という点では「無視」は非常に有効です。

世の中には、要領を得ないような意見はたくさんありますし、わざわざ悪口雑言を見て傷つく必要もないのです。

ただし、その一方で、有益な情報すらもシャットアウトしてしまうという不具合も生じるので、そこは気を付けたい、というところです。

 

実は、僕たちは賛成意見よりも、実は反対意見からの方が学ぶことが多くあるため、「嫌だけどあえて見る」ことで新たな発見も見つかることもあるのです。

 

ですので、自分とは違う意見を見た時でも、時と場合によって「無視」するか「あえて見る」という選択を使い分ける必要がある、といえます。

 

そうやって情報の取捨選択をしていくと、次第に「何が有益か無益か」を判断する能力を養う事が出来るので、僕たちはより建設的である事が出来るのではないでしょうか。

 

質問という行為について

さらにいえば、別の解決方法もご紹介しておきます。

それは、「他人に質問する」というシンプルな方法です。

 

例えば、「つまらない」←「嫌なら見るな」

ではなく、

「つまらない」←「なぜつまらないと思うの?」

と、疑問を投げかけるのです。

 

そこで、もし相手が答えてくれれば、議論が成立します。

「なぜあなたはそう思うのか?」そして「自分はこう思うけど、どう思うか?」という風に意見をぶつけあれば、理解はより深く進められるとはいえないでしょうか。

 

仮にお互いの意見が最終的に割れたとしても、「そういう意見もある」ということが分かるだけでも、大きな収穫だと思います。

 

他人は質問に答える道具ではない

とはいえ、「分からない事は何でも質問すれば、お互いがすんなり分かり合えるのか?」といえば、そんな単純な話でもないことは注意しておきたいところです。

 

なぜなら、質問したからと言って、相手が答える義務はないからです。

場合によっては「ケンカ売ってるのか?」と誤解される事もありえますし「そんなことも知らないの?」と煽られる事もあるでしょう。

 

それもそのはずで、「質問に答えること」は強制でも何でもないわけですので、他人に「答えること」を無理強いすることは出来ないのです。

 

それに、質問とは自分の成長の為に相手を利用するという行為とも取れるので、相手が不快になる事も容易に想像できるのです。

なので、円滑に質問や議論が成立するためには、それなりの関係性を築いておく必要もあるのです。

 

ただし、仮にある程度の信頼関係を築けて、その真意を聞けたとしても、そもそも自分の意見と違うのであれば、すぐに納得が出来るとは限らないでしょう。

場合によっては相手の答えにカチンときて、罵り合いに発展するという、望まない結末も訪れることもあります。

ですので、質問は万能の解決策ではないし、答えを聞いた上で、さらに衝突が起こる事なんて当たり前なのです。

 

けれど、それでも質問や議論には大きな意味があります。

 

「雨降って地固まる」と言うことわざの通り、「お互いが、お互いを理解したい」という元で行われる衝突は、より多くの実りを与える事があるからです。

 

つまり、僕たちには「嫌なら見るな」という言葉以外にも、さまざまな対応方法があるという事です。

 

恐らく、僕たちは時と場合によって、いろんな道をたどるのでしょうが、「不毛な争い」だけは出来れば避けたいと思う所です。

 

「嫌なら見るな」 最後に

さて、以上が僕の考えた「嫌なら見るな」の論争についてです。

かくいう僕はこうしたブログを発信している以上、どんな事を言われたり、反論されても仕方がない立場にあると言えます。

 

けれど、そこでもし僕が「このブログは嫌なら見ないでください!」などといえば、某AAのようにしかなりません。

 

そんな事がまかり通るなら「じゃあ最初からブログなんて書くなよ!」とう至極まっとうなツッコミを受けるのは明らかと言えます。

 

なので、僕は「見るな」とはいえないですし、今後も皆様の何らかの役に立てそうな事を考えつつも、こうして好きな事を自由に書いていきたいと思います。

 

ただ、何でも自由に言えるという事は、それと同時に「発言に対する責任」もものすごい重圧に感じることがあります。

何かを創作し発信するという事は、必ずどこかで反感や否定を生むことになることを最近になってようやく実感し始めました。

 

しかし、僕たちは「正しい事が分からない」からこそ、平然と間違った事を言い、謝罪し、修正していき、より成長していくほかないのだと考えています。

 

そうした分からない事に気付くためにも、やはり「嫌なものでも見ないといけない時が来る」のだと思っております。

 

というわけで、今回のお話はおしまいとなります。

 

少しでも皆様のお役に立てたら幸いです。