今回のテーマは2つあります。
1つ目は「意見がないのはどうでもいいのか?」。
2つ目は「どうやったら意見を持てるのか?」という事。
それぞれ見ていきます。
Contents
意見は本当にどうでもいいのか?
なぜ僕たちは「意見」を持つ必要があるのでしょうか?
別に、意見なんて持たなくても、生きていく上では困らないような気はしますよね。
それにいちいち疑問を持つのも考えるのも面倒ですし、意見を求められても、黙ったりはぐらかす事も可能です。
ですので、何となく「みんなと同じように」生きていれば、それはそれで十分な生き方かもしれません。
そうやって、あえて意見を持とうとしない人も、世の中にはたくさんいるでしょう。
ところが、意見を持たない生き方と言うのは非常に危険な事でもあるのです。
その理由は、簡単に他人の言いなりになるという、恐ろしいデメリットがあるからです。
次は、それを詳しくご説明します。
意見がないと他人の言いなりになる
自分の意見がない人は、どうやって生きるのかと言うと「他人の言いなり」となる場合が多々あるのです。
例えば、「この人が言うから間違いない!」とか「この人に言われたからやるしかない」というような、常に誰かの指示を求めずにはいられなくなります。
自分には意見がないわけですから、自分の考えや行動に自信がなくなるのです。
だからこそ、他人からの命令を待ち、その命令してくれる相手から安心感を得るわけです。
あるいは「みんながやっているから」というだけの理由でただ流され、やりたくない事でも当たり前のようにしなければなる事にもなるでしょう。
そうなると、自分は他人の意見に従うだけの存在となり、結果として「他人の言いなり」となるのです。
もちろん、流されたり、命令を聞くことは非常に楽な生き方ではあります。
他人から言われたこと以外、余計な悩みもなく、考える必要もないのですから。
実際、世の中はそうやって「何も考えない人」が大勢いるようにも思える時があります。
もちろん、僕はそういう生き方を否定するわけではありませんし、以前の僕もそうでした。
ただし、そうやって流されたり、言いなりになるだけだと、いずれ苦しくなる時が来ます。
なぜなら、「自分の意見を殺さなければならない場面」がいくつもやってくるからです。
例えば「嫌なことは嫌と言えない」とか「弱音を吐きたいけど吐けない」という状況に陥ることがあります。
親や先輩や上司など、時として反発したくなるようなことがあっても、意見を言わずに黙っていると、まさに彼らの奴隷と化すことがあるのです。
また、本当は違うと思っていても、他人に同調しなければならず、そのせいで大きな過ちを犯す事もあるでしょう。
このように、常に相手や他人の意見に従わないと判断できないため、「本心とは違う行動」をとり続けなければならないのです。
そして、それはやがて心身に影響をきたす事となり、結果的にどんどん自分を追い詰めることになるのです。
これこそが意見を持たない事の危険性と言えます。
意見がないと騙されやすくなる
また、他にも意見を持たない事の危険性はもう1つあります。
それは「騙されやすくなる」という点です。
例えば、「占い」を極端に信じて傾倒してしまう人がいます。
そういう人は、自分の将来を自分で決めるのが怖いため、占いや他人のアドバイスにすがると考えられます。
あるいは、「儲け話」に簡単に乗っかてしまう人も後を絶ちません。
そういう人も、「この人の儲け話は絶対正しい!」と信じ込み、自分の意見を蔑ろにすることで騙されるわけです。
などという具合で、意見を持たない人は「他人から騙されやすくなる」といえるのです。
しかも、仮に他人の指示で行動をしたとしても、その責任はすべて自分の元に帰ってきて、場合によっては取り返しのつかない事にもなるのです。
よって、他人の言いなりになるのは、簡単だし楽な面はありますが、最終的に自分の首を絞めることになるといえるのです。
もちろん、「そんな人生の方がいい!」と思うのならば、それも1つの立派な意見でしょう。
しかし、そんな人生が少なくとも嫌だと思うのならば、僕たちは、時には勇気を振り絞って、「自分の意見」を述べなければいけない時が来るのです。
意見は誰でも持つことが出来る
以上が、意見を持った方が良い理由についてでした。
続いては2つ目のテーマである、「意見を持つ方法」についてお話します。
しかし、これはそう難しい事ではありません。
本当に、日常的な些細な事から始めることが出来ます。
例えば、映画や漫画を鑑賞した時に、僕たちは何らかの感想を抱くと思います。
その際「面白かった」とか、「つまらなかった」とか思いますよね。
そういった「感想」こそが意見に繋がるのです。
もちろん、「面白かった」だけでは「ただの感想」であり、意見ではありません。
感想とはあくまで「思った事」ですが、意見とは「考えた事」だからです。
なので、意見を持つためには「考える事」がポイントとなります。
では、意見を考えるとは何か?
それは例えば「なぜ、自分はこの映画を面白いと思ったのか?」と疑問を持つことです。
そうした1つの疑問を持ったとき、僕たちはその理由を考えていく必要があります。
すると「○○が面白いから」とか「キャラクターがいいから」とか、色んな理由を考えると思います。
そうして様々な理由を考えたうえで、ようやく、「○〇だから、この映画は面白いと言える」という事ができます。
その「○○だから」という理由を述べる事は、思っただけでは不可能で、考えなければ出てこないのです。
よって、意見を持つというのは、「なぜ、そう思ったのか?」という疑問に対し、「何らかの答えをえを考える事」で初めて生まれるのです。
簡単に言えば、
感想を持つ⇒なぜそう思ったのかを考える=意見
となるわけです。
感想と意見の大きな違い
「意見を持つって、こんな簡単な事でいいの?」と思われるかもしれません。
そもそも意見とは、「正解を出さないといけない」というわけではないのです。
なので、そこまで堅苦しく考える必要はないのだと思います。
あくまで意見とは「個人の考え」に過ぎないのです。
だから、どんな意見だろうと、自分がそう思うならばそれでいいのです。
それならば「感想でもいいんじゃないの?」と思う方もいらっしゃるかもしれません。
では、なぜ社会では感想よりも意見を求められることが多いのでしょうか?
感想との大きな違いは、「説得力の有無」につきます。
感想を言う場合は、例えば、他人に映画を勧めたい時に、ただ「超面白かったよ!!」と言うだけとなります。
一方、意見を言う場合は「この映画は○○な展開だから、君もハマるかもしれない」と伝えられるわけです。
このように意見の方が感想よりも「説得力」が増すのです。
社会では、時として相手を説得させないと困る事が多々あります。
そこで、「どうしてこう思うのか?」という疑問を持ち、それを明らかにしないと、ただの感情だけでの話し合いとなり、根本的な解決が出来ない事となるのです。
よって、意見を持つ際はいかに「説得力があるか」が重要となるわけです。
逆に説得力さえあればいいので、「正解」でなくてもいいのです。
意見を持って終わりではない
ただし、意見を言えたとしても、それで終わりというわけではありません。
というのも、「より正確な意見」を求めるとなると、話は別だからです。
例えば、議論の際、自分が意見を出せたとしても「それは本当の事なんですか?」と聞かれたらどうでしょう?
その際、自分が思い違いしていたり、欠落があれば、自分の意見は正確でなった事が明らかになります。
つまり、意見を持ったとしても、根拠がなかったり正確でなければ、ただの感想や嘘になるわけです。
そうならない為には、僕たちは意見を深掘りして、意見に正確性を求める必要があるのです。
それでは次に、意見に正確さを求める方法を、考えてみましょう。
意見に正確さを求める
意見をより正確にするために重要な事の1つは、「より疑問を持つ事」です。
「自分はこう思ったけど、果たしてこれでいいのだろうか?」と、自分自身を疑うのです。
1つの意見に固執するのではなく、この意見は本当に有効なのかを考え、より納得のいく理由を探せば、正確さは磨かれていくのです。
とはいえ、いつまでも1人で自問自答していては、やがて息詰まる事もあるでしょう。
そんな時にさらに重要となるのが、「他人からの視点」です。
「自分はこういう意見だけど、他の人はどういう意見を持っているのだろう?」と知る事です。
そうして、他人の意見を知る事が出来れば、自分の意見と比較することが出来るのです。
他人と意見を比較した際、相手の言い分に意味不明な点や矛盾点に気付けば、「自分の意見はそこまでおかしくない」といえます。
その一方で、「なるほど、そういう意見もあるのか!」と、新たな発見に気づくことも多々あると思います。
すると、自分の意見の足りないところを補えるので、自分の意見は深まるのです。
さらに、より多くの意見を知って比較することで、その意見は「精度の高い」ものとなるでしょう。
その為の具体的な方法として、僕たちは他人と議論して意見を深めたり、本を読んだり、話を聞くのです。
また、その際は相手の意見を一概に否定したり、決めつけず、「聴く」といった姿勢も必要になります。
完璧な意見を求めないという事
ただ注意が必要なのは、「完璧な意見や答え」は求めてはいけないという事です。
例えば、お医者さんの意見には従った方がいい場合があります。
また、専門家の意見や、事実やデータに基づいた意見は、大いに参考になるでしょう。
しかし、それでも彼らの言う事が「絶対的に間違っていない」とは言い切れないのも事実です。
医者だって誤診や医療ミスはありますし、技術や能力も見解も、人によって異なります。
専門家も、データを間違えて解釈しているかもしれないですし、都合の良い意見を述べる事だってありえるでしょう。
それに、もしこの世の中に「絶対的な答え」があるとすれば、僕たちは一切悩まずに「答え」に従ってただ生きていく事は出来るはずです。
けれど、現実はそんな「絶対的な答え」が用意されている事などなく、どんな人であっても「どうすればいいのだろう?」という悩み事は尽きないのです。
ごまんとある社会問題が一向に解決しないのも、そういう理由からなのです。
つまり、僕たち人間に出来るのは「意見を持つ」事しか出来ず、「絶対的な正解を出す事」は出来ないのです。
完璧な答えを求めるとどうなるのか?
それでももし、「完璧な意見」を求めるとするならば、求道者のような生き方が待っています。
その求道者の先に待つのは、一種の「信仰」でしかありません。
確実に存在しないものを「絶対にある!」と信じる事は、まさに信仰なのですから。
そして、信仰の対象というのも、人によって様々なので、信仰もまた絶対的に正しいものではないのです。
言い換えれば、僕たちは答えがない問いがあるからこそ「考え続ける」しか出来ないのです。
そして、答えのない問いに対し、精いっぱい自分なりの答えを出し、それに則った生き方をする事こそが、僕たちが「意見を持つ理由」なのです。
意見はさまざまである
以上が、「意見の重要性」と「意見を持つ方法」についてのお話でした。
そして、それらを踏まえた上で、1つ言えることがあります。
それは、「たくさんの意見があっていい」という事です。
世の中には「どれも正しい」ような意見があり、「どれも確かな根拠」がある、というような意見はいくつも存在します。
なので、僕たちはどんな意見を持つのも自由ですし、他人がどんな意見を持つのも自由ですし、信じたいものを信じればいいのです。
だからこそ、自分や誰かが常に正しいというわけではないし、意見の衝突が起きるのは当然なのです。
そうなると、僕たちは「じゃあ、一体どうすればいいのか?」と、迷ったり困る事もあります。
その時、求められる事こそが「より精度の高い自分の意見」に他なりません。
もし迷うのならば、どちらの視点にも立って、どちらが良いと言えるのかを考え、最終的に自分が判断を下す必要が出てきます。
そして、その為の一番の方法こそが「日々の勉強」なのです。
勉強することで、世界の仕組み、物事の成り立ち、考え方を知るのです。
そうしてより「事実」に近づけば近づくほど、自分の意見の説得力や根拠は多大なるものとなるでしょう。
自分の意見を持つための方法 最後に
それでは最後に、意見を持つ上で、さらに重要な事をお話していきます。
それは、問題提起の点です。
そもそも意見とは、冒頭でも示したように「問題や疑問」があった時に、初めて生まれます。
なので、まずは問題を見つけない事には、意見も存在しえないのです。
実際に、世の中には問題だらけであり、政治家や学者のような人でなくても、僕たちが考えたっていい問題はたくさんあるのです。
そうした問題を見つけて、良い方向にしていく事は、自分のみならず、社会にとっても大切な事ではありませんか?
では、「その問題とは何か?」という疑問になりますが、それは自分の人生を基準にすれば見つかります。
例えば、いじめ、働き方、差別、家庭、育児、お金、環境などなど、身の回りには様々な困りごとが存在しています。
その時、僕たちは、ただ黙って受け入れる方法もあります。
しかし、あえて黙っている必要はなく、「こうすればよいのではないか?」と思ったって良いのです。
そこで、他人からの意見を求め、清濁併せ呑んだうえで考えて、最終的に実行すれば、より良い方向に進むかもしれないのです。
それはたとえ小規模なことではあっても、確実に自分の人生を変えるチャンスにもなるのです。
なので、今の自分の人生に不平不満があるとするならば、普段から当たり前と思っている事に疑問を持つことが、問題解決の第一歩となるのです。
というわけで、今回のお話を終わりたいと思います。
皆様のご参考になれば幸いです。