他人との比較には意味があるよね、という話

比較

たまに「他人との比較は良くない!」と言われたりしますよね。

なんか、もっともらしい立派な言葉に聞こえます。

しかし、自分はそうは思いません!

 

というわけで、今回は、そんな「他人との比較の意味」について考えいていきたいと思います。

 

他人との比較が良くないと言われる理由

まずは「比較は良くない」と言われる理由についての私見を述べさせていただきましょう。

簡単に言えば、比較すると「凹むから」です。

凹む事によって、嫉妬したり劣等感を抱くから不健全だというのです。

 

そりゃあ人間、優れた人に比べれば、短所なんていくらでも出てきますからね。

自分の短所ばかり気にして生きるのは、確かにしんどいとは思います。

 

だからと言って、安易に「比較はやめましょうね」で終わっていいものでしょうか?

 

比較否定派のありがちなアドバイス

また、よくあるアドバイスとしては、「過去の自分と比べろ」とか「自分なりの目標を持つ」とかが挙げられたりしています。

まぁ、それはそれでいいかもしれません。

 

でもですよ?

 

資本主義社会に生きる人は、どう考えても「他人と比較や競争」から逃れられないじゃないですか。

みんな仲良し共産・社会主義国家で成功した例なんて、見たことないですしね。

 

もしそんな社会が実現しているならば「比較なんて不要」になりますが、現実はどうですか?

「自己満足でいい」なんて言ってたら、会社のお荷物にでもなって、食いっぱぐれますよ。

 

そんな風に「競争原理」で成り立つ残酷な世界を、見て見ぬフリして生きることが、本当に「良いアドバイス」なのでしょうか??

 

確かに競争によって確実に「貧困層」が生まれているわけですが、比較をやめたところで何が変わるというのでしょうか?

 

僕からすれば「パンがなければ、ケーキを食べればいいじゃない」と言っているのと同じに見えません。

「嫉妬が嫌なら、比較をやめればいいじゃない」って、極論にもほどがあります

 

結局、成功者ぶって「比較しなくてもいい立場になった人間」が、上から目線で勝手に言っているだけにしか見えないのです。

上からの立場で見れば、そりゃあ「(自分にとっては)比較は意味ない」ってなりますからね。

 

僕はそんな風に「比較を否定する事」に対し、甚だ疑問でならないのです。

 

健全な比較の仕方

ですので、少なくとも「生き残りたい」「生存競争に勝ちたい」と思うならば、他人との比較は必須です。

もちろん、ただ、やみくもに比較すればいいってわけではありません。

 

健全な比較をする事が重要になります。

 

健全な比較とは「自分が出来ない事」を「出来ないと認める事」です。

なぜなら「出来ない事」で優位に立とうとしても、普通に負けるからです。

球技が下手なのに、サッカー選手になろうとするのはほぼ不可能なように。

 

そんな風に「苦手」な事とか「負ける確率が高い」と分かっていることに、あえて挑戦する必要があるのでしょうか?

 

それよりも「他人との比較」によって、自分に出来ない事を切り捨てていくのが先だと僕は思います。

すると、そのうちに「自分の得意な事」や「出来る事」に出会う時が来ます。

その時に初めて「自分の武器」になるのです。

 

その武器を使って活躍できれば、ようやくこの資本主義社会でやっていけることになります。

 

一方、「出来ない事」を知らないっていうのは、「ひのきの棒」を持って「これなら魔王を倒せるぜ!」みたいな大きな勘違いをしてるってことなんです。

 

「出来ない事」は悪じゃない

そう考えると「出来る事」よりも「出来ない事の方が多い」事に気づくはずです。

みんながみんな「全知全能の超人」なわけじゃないんですから、当たり前です。

 

それなのに「出来ない事が悪」として蔓延している現実の方に問題があると僕は考えます。

特に学校教育においては「みんな同じくらいできて当たり前」っていう、クソみたいな価値観を植え付けられますからね。

そういう「ヤベー常識」に自分を当てはめて「自分は出来ないからダメなんだ」と思ってしまうわけです。

 

いやいやいや…(汗)

 

比較がダメなんじゃなくて「自分の欠点を認められない事がダメ」なんじゃないかって話ですよ。

いいじゃないですか、欠点が何十個、何百個あったって!

世の中にはホントーにダメな人もいて、それでも懸命に生きられるんですよ。

 

なぜかって?

 

それはたった1つでも長所があれば、欠点なんて帳消しになるからです。

 

長所なんて1個で十分

極端な話、たった1つでも長所があれば、それで生きられると思います。

そうじゃなかったら、人類が「80億人」にも増えたりしませんて…。

(もうじき100億人超えるなんて試算もありますしね。)

 

で、その80億人、みんな天才の超人ですか?

世界中の人間と1人ずつトーナメントして、勝ちぬいた人が真の勝者ですか?

 

健全な比較っていうのは、そういう事じゃありません。

 

「自分が生き残れる程度のギリギリの長所」が1個でもあれば、それでいいって話です。

 

たったの「1個」というと、甘く見られる方もいるかもしれません。

しかし、たった1個の長所でも、見つけるのはめちゃくちゃ難しいんです。

なぜならば。

比較を続けて、「自分のダメなところ」を直視し続けなければならないから。

これは「挫折」とも呼ばれますが、「自分のダメなことを受け入れる」というのは、相当な苦痛を伴うのです。

 

逆に言えば、「他者との比較」によって大きな傷を負った人間にしか、本当の長所は見つけられないのです。

比較をし続けると「自己分析の精度」がめちゃくちゃ上がるので、当然長所の確度もより高くなるのは当然ですからね。

 

ですので、1個でも長所があると言える事は、誇るべきことなのです。

 

それすら見つけられない人も、世の中にはいるかもしれないのですからね。

「楽な道」「安全で傷つかない道」を通ってきた人は、恐らく「本当の長所」は見つけていないと思います。

 

ちっぽけな人生でいいじゃん

ただ、ようやく探して1個っていうのは、どんだけちっぽけな人生なんだって思いますよね。

でも、ちっぽけな人生のどこが悪いんですかね?

 

たとえ100人と付き合っても、婚姻が結べるのは1人ずつです。(日本では)

死ぬほど金があっても、死ぬまでに使い切れなかったら意味がないんです。

つまり、どんだけ多くの才能を持って生まれても、死ねば一緒なんですよ。

たとえ死んだ後に評価されたところで、嬉しいなんて感情が残ってるんですかね?

 

それに、もし1個でも長所があれば、それは「伸ばすことも可能」です。

そうすれば、「短所」を帳消しにするどころかプラスに持っていけます。

 

そうでなくても先ほども申し上げた通り「生きていけるだけのギリギリの長所」で十分って話です。

 

他人と比べてはいけないもの

ただし、絶対に他人と比べてはいけないものがあります。

それは「自分自身の価値」です。

 

自分の価値とは、自分で決められるものです。

こればかりは、比較したり他人から決めてもらう事ではありません。

 

仮に他人から「価値がない」と言われても、「じゃあ、あなたにはどんな価値があるのか?」という話です。

そもそも、人間に価値なんてあるかも分かりませんからね。

 

神様でもない限り、人の価値を判断できるほど、偉い人なんていないのです。

そんな中で唯一、自分の価値だけは自分の好きに決められるという特権を持っているのです。

 

「自分は自分の事をこう思う」でよくて、他人からとやかく言われる筋合いはないのです。

一方「他人の価値」を決めるのもおこがましい話なので、あくまで「自分の価値だけ」にとどめた方がいいといえるでしょう。

 

よって、比較するのはあくまで「長所」と「短所」にとどめておいた方がいいです。

これこそが僕の考える「建設的な比較」なのです。

 

他人との比較には意味があるという話 まとめ

最後になりますが、何でもかんでも「比較はダメ!」と安易に切り捨てたところで、競争社会はあなたを待ってはくれません。

そんな現実に蓋をして、お優しい人たちは「比較しなくても大丈夫だよ!」と言うかもしれませんけどね。

 

しかし、それはただの無責任なアドバイスでしかありません。

そもそも他人の人生に責任を取ってくれる人なんて、誰もいないんですからね。

 

確かに、熾烈な競争は、孤独でもあり辛い事も多々あります。

しかし、競争とは他人を蹴落とす事がすべてではありません。

「自分の長所や持ち味を生かしたい」という生き方もあるのではないでしょうか。

 

もう1つ大事なことは「自分が戦えるフィールド」も比較した方がいいという事です。

ただこの話をすると、また込み入った話になるので、また今度に…。

 

最後になりますが、人生なんて、たったの80~100年で終わり、そのうちの約30年は睡眠時間です。

本当に短い時間の中で、他人とは違う「自分だけの生き方」を比較によって見出すのも、面白いのではないかと考えている次第です。

 

というわけで、お話したい事は以上になります。