今回は「暴力はダメ」という文言はきれいごとなのか否か。
そして、許されないのか否かをテーマに考えていきます。
Contents
暴力の定義について
まず、暴力の定義を行っていきます。
暴力とは様々な種類があると思われます。
肉体的や精神的なものであったり、経済的なものといったものです。
例えば、肉手的な暴力とは、物理的に人を殴ったり武器で危害を加える事。
精神的なものとは、他人を支配したり、誹謗中傷したり、怒鳴りつける事。
経済的なものとは、金銭や財産を奪ったり破壊する事などが挙げられます。
また、動物や自然環境に対する攻撃や破壊活動も暴力に当たるかもしれません。
ただ、これ以上挙げるとキリがないため、今回はその辺の認識で書かせていただきます。
暴力は本当にダメなのか?
では、その暴力は本当にダメな事なのでしょうか?
どの目線でものを言うかにもよりますが、この国においては「暴力が肯定される場合もある」といえます。
暴力が肯定される場合とは「ルール(法律)を破った時」です。
例えば刑事事件で有罪判決となった場合、刑法第9条では「死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留及び科料を主刑とし、没収を付加刑とする。」というルールが定められてます。
ルールを破ったとき、自由を奪う暴力や金銭を奪う暴力、そして死という暴力が行われるのです。
逆に言えば、ルールを守っている時は、不当な暴力は否定されることになります。
(基本的に暴力はダメという認識があるからこそ、刑罰が執行されるわけなので。)
つまり、その時々によって暴力は肯定も否定もされるわけであり、一概に「暴力はダメだ」とは言えないわけです。
さらにいえば、時代や国によってそのルールは変わるわけであり、暴力を振るってもお咎めがなかった例なんて、歴史上にいくらでも存在しています。
ただし、現在におけるロシア・ウクライナ戦争は国際連合憲章2条4項に違反するため、肯定するわけにいきませんが。
なぜ、暴力を振るうと裁かれるのか?
ではなぜ、世界では暴力を咎めるルールが存在しているのでしょうか?
その理由の1つとしては、不当な暴力が横行すれば、不利益や損害が多く生まれるからだと考えられます。
真面目なものが泣きを見て、暴力を振るう人間だけが得をすれば、誰も頑張ろうとしなくなるでしょう。
挙句の果てには「他人から奪った方が楽」だと思い、犯罪行為が蔓延していく可能性が高くなります。
それでは社会が成り立たなくなり、社会や国全体にとっての損失になりえます。
その損失を防ぐためにルールを決め、出来る限り安全な生活を送ろうという協定を結ぶ必要があるわけです。
(もしも未だに侵略や植民地化などの暴力によって莫大な富を得る事が出来るならば、積極的に暴力は推奨されていたでしょう。)
では、「ルール」そのものは暴力にあたるのでしょうか?
例えば、独裁政治の場合でも何等かのルールは敷かれますが、独裁とはそれ自体が「国民の支配」であるため、「ルール=暴力」という構図が生まれます。
しかし、独裁国家と違い、民主主義国家では「自分たちで作ったルールを自分たちで守る」事が前提となっています。
そのため法律による制約は暴力ではなく「コンセンサス(民意)」という表現の方がしっくりくるはずです。
お互いの取り決めとして「ルールを破ったら暴力は振るうけど、破らなければ手を出さない」とあれば「未然の暴力」になります。
よって、「基本的に暴力はルール違反だが、ルールを破った者には暴力が適用される」というのが現代社会の認識になるかと思われます。
(ちなみに、自分はそんなルールを作ったつもりはない!という方は、ぜひ18歳になったら選挙に投票に行きましょう。)
裁かれない程度の暴力は許されるのか?
ただし、残念ながら世の中のありとあらゆる暴力が、法律で裁かれるわけではありません。
犯罪に当たる暴力なら明確なルール違反となりますが、犯罪にならない程度の暴力は、たくさんあるからです。
例えば、軽く叩かれるとか、悪口を言われるとか、怒鳴られるとか、それも立派な暴力行為に当たると思います。
しかし、規模の小ささから、内々の間で終わってしまう事は多々あるでしょう。
そのような暴力は果たして許されるのでしょうか?
その点についても考えてみましょう。
結論、被害者による
結論から言えば、許されるか否かは、被害者の価値観によって異なると思われます。
例えば被害の大小や、被害者の許容範囲、加害者の態度などに依るのです。
相手からすれば「そんなつもりはなかった」という無自覚を装ったとしても、被害者からすれば大きな問題だったりするわけです。
それらも加味したうえで、許される場合もあれば、許されない場合もある、それだけなのです。
では、許さなかった場合、その怒りはどうやって晴らすのでしょうか?
いくら許さないと言っても、過度な報復やリンチはルール違反になる恐れがあります。
そのため考えられるのは、誰かに相談したり、言葉で訴えたり、拒否したり、周囲に働きかけるなどの、別の対策を取る方が現実的と言っていいでしょう。
ただ確実に言えるのは、許されるか否かは、加害者が決めることは絶対に出来ないという事です。
その点のみが、被害者の唯一の「自由」であり、加害者への罰といえるでしょう。
自分だけが本当に被害者か?
逆に言えば、自分が加害者になった場合も、同様の事が言えます
例えば、人生で今までに1度も他人に暴力を振るった事がない人は、果たして存在するのでしょうか?
物理的でないにしろ、悪口による言葉の暴力や、ネットでの誹謗中傷をしたことがない人はいるのでしょうか?
自分に自覚がなくても、他人は傷ついていることは多々あるかと思います。
「自分はそんなつもりはなかった」というのは、お互いに起こりうることなのです。
自分は被害者かもしれないし、加害者の立場にあるかもしれません。
つまり、「暴力は許されない」と言う人がいても、その人自身もまた暴力を行使している可能性があるわけです。
そのため、ある程度の暴力を許さなければ、「自分は良いのになぜ他人を責められる?」という矛盾を抱えることになるのです。
いわゆる「汝らの中、罪なき者、まず石をなげうて」ってやつですね。
それでも他人を許すことが出来るか否か。
やはり被害者の価値観によるといえるでしょう。
自分は絶対に悪口は言わない?
それでももし、「自分は絶対に暴力を振るったり、悪口を言わない」と言う人がいた場合はどうなるでしょうか?
その場合は、「もしも些細な暴力でも裁かれる世界だったら」と考えてみて下さい。
例えば一言だけ「バカ」と言ったりネットに書き込むことが「犯罪」となるならば、日常会話もままならなくなります。
直接的な悪口ではなかったとしても、相手が傷ついたと感じだけで「暴力」と認定されたらどうしようもありません。
そんな法でガチガチに縛られた社会が、果たして成り立つことはあるのでしょうか?
もちろんそれは非現実的な話であり、ルールで縛り付け過ぎると、僕たちは動けなくなるばかりだと考えられます。
そのため、些細な暴力や悪口というのは、どうしても容認されてしまうのです。
それでももし自分が傷ついた時はどうすればいいかというと、些細な事は許すか忘れるかくらいしかないのではないでしょうかね。
あるいは、自分も他人に同じことをしているかもしれない、という思考も大事なのかもしれません。
暴力は許されるのか否か 結論
さて、ここで最初にあげたテーマである「暴力は許されるのか否か」の結論を述べましょう。
今回の答えとしては、基本的には許されないが、特定の状況や条件の下で暴力が許されることで、社会は成り立っているという事。
もう1つは、許されるか許されないかを考えるのは、加害者にその権利はなく、被害者の課題である事。
という以上2点になります。
最後に 正義という名の暴力
さて、最後になりますが、昨今では「正義中毒」という言葉も現れるようになりました。
これはまさに「暴力は許されない」という正義の名のもとに、日々ネットリンチなどが行われることを指します。
SNSでは「加害者叩き」「被害者叩き」がもはや恒常化されているように見受けられます。
さらに、YouTuberの一部では「私人逮捕」も話題になり、「正義」は見世物となりました。
暴力を許さない事による正義感は、確かに社会を守るためには必要な感覚だと思います。
けれど、それがかえって多くの暴力を生み出してしまっては、本末転倒だと思うのです。
そうならないために大事なのは認識を変える事や、より広範囲にわたるルール作りではないかと思います。
そのための民主主義国家であり、僕たち1人1人に出来ることはルール作りなのです。
おかしいと思ったルールは話し合い、みんなで決めていく必要があるのではないかと。
具体的に言えば投票はもちろんの事、風潮や世論を動かす事なのです。
それがやがて、時代や世界をも動かすことになる…、なんてことになるかもしれないのです。
(まぁ、これが本当のキレイ事ってやつかもしれないのですが。)
というわけで今回は以上になります。