みなさんは学校で勉強しているとき、ふと「なんで自分は勉強しているんだっけ?」という疑問を持ったことはないでしょうか。
僕も学校や勉強の意味が分からず、学生時代は苦痛以外何物でもありませんでした。
というわけで、大人になった今、改めて「勉強の意味がなぜ分からなくなってしまうのか?」を考えていきたいと思います。
勉強には2種類ある
僕は、勉強には2種類あると考えています。
それは、「受動的な勉強」と、「能動的な勉強」です。
その違いは「自分が学びたいという意思があるかどうか」で分けられます。
ではまずは「受動的な勉強」についてお話していきます。
受動的な勉強とは?
受動的な勉強とは、自発的に学ぶのではなく、「教えられる」ことです。
例えば、あなたは、「学びたい」という意思でなく、自然のうちに誰かから教わった経験はおありではないでしょうか?
特に学校などでは、自分が「学びたい」という意思がなくても、教科書に沿った知識が教えられてきたと思います。
また、学校に限らず、親であったり友人であったり、先生以外の人からも、社会のルールや生活の知恵、さらには礼儀を教わった経験はないでしょうか。
その際は、「学びたい」と思って学んだというよりも「そう教わったから」という経験の方が多いと思います。
このように、自発的に学ぶのではなく、「教えられる」ということが、この「受動的な勉強」と言えます。
その結果、僕たちは「基礎的な知識」を学ぶことが出来、一般常識などを駆使して、日常生活が送れるようになるのです。
さらに、最初は勉強に興味がなかったとしても、教えられていくうちに勉強に興味を持つようになった人も、少なくはないでしょう。
そこから応用させ、ひいては自分の成長へとつなげられるのではないかと思います。
逆に、もしそういった基礎もないのに、いきなり「自分から学べ」というのも、よほどの天才でない限り、難しい話でしょう。
よって、僕たちはまず受動的な学びに重きを置くのだというのが、最初の考え方です。
僕自身、そういう面での勉強においては、役に立ったとは感じています。
受動的な勉強のデメリット
ただ、そこにはデメリットもあるのです。
「受動的な勉強」というのは、「自分から進んで学ぶ意思がない」ということでもあります。
そういう人にとっては、「勉強をやらされている感」や「無理やり教えられている感」が芽生えたりすると思います。
そうなると、例えば「勉強に興味がないのに、テストや試験を受けなければならないのが苦痛だ」とか「ルールを押し付けられて窮屈だ」という風に、学ぶことが嫌になることがあるのです。
また、時として「価値観や常識を押し付けられる」こともあり、それもまた苦痛だと感じることもあります。
けれど、「みんながやっているから嫌とは言えない」とか「ルールを守らないと怒られるから」という風に、無理に自分を納得させるような答えを作って、「なんとなく勉強しているだけ」という状況に陥りかねないのです。
そして、そうやって勉強をやらされているうちに、「これって学ぶ必要があるのだろうか?」という疑問にぶつかることもあるでしょう。
そうなってしまうと、今回のテーマである、「勉強の意味が分からない」という疑問を生み出しかねない、というわけです。
これが「受動的な勉強」のデメリットと言えるのです。
さらに、難しい問題が解けなかったり、学力の限界を感じたりすると、学ぶ必要性を見出せなくなる場合もありえるでしょう。
そうなってしまえば、学ぶことやめ、何も考えない人になる可能性も生まれます。
今でこそ学びの重要性を多少は理解できるようにはなりましたが、学生時代の僕はそんな風に行き詰っていました。
ですので、次は「どうすれば勉強に意味が見いだせるのか?」を、考えていきたいと思います。
能動的な勉強について
さて、先ほど僕は「受動的な勉強」について説明しました。
「勉強の意味がわかない」という人は、この「受動的な勉強」においてのデメリットに直面したからだと僕は思います。
しかし、それは単純な話でもあります。
そもそも「目的を持って勉強していない」のですから、「勉強の意味が分からない」のは当たり前なのです。
つまり、勉強する目的がないからこそ、「何のためにやっているのか?」と分からなくなり、理由が見いだせなくなるのです。
逆に言えば、「目的を持つ」事で、勉強する意味が後からついてくる、ということになるのです。
もし、目的があれば、「○○のために勉強している」、という説明ができるはずなのですから。
つまり、そうした「目的意識を持って勉強する事」が「能動的な勉強」だというのが、僕の意見です。
目的をはき違えるという罠
ただし、世間には「勉強そのもの」を目的とする人も少なくありません。
もし、これを読んでいる方で、「勉強自体に意味があるはずだ」と考えていらっしゃったとすれば、それは大きな誤解だと思います。
実は、勉強というのは、「目的を達成するための手段の1つ」でしかありません。
例えば、日常生活の中で「○○って何だろう?」という疑問に対し「答えを知りたい!」と思った時、あなたなら何をしますか?
本やネットで調べたり、人に聞いたり、あるいは自分で考えたりするのではないでしょうか?
それこそが「能動的な勉強」だと僕は思います。
つまり、最初に「自分が知りたいという目的」が真っ先にあります。
その次に、「調べるという手段」を使って、「結果的に知識が増える」というわけです。
簡単に言えば、目的→手段→結果の順番です。
これに上記の例に当てはめると、
「知りたい」という目的→「調べる」(勉強する)という手段→「知識が身につく」という結果が得られる
となります。
ところがもし「勉強が目的」となってしまうと、意味が分からなくなります。
勉強が目的→手段も勉強→勉強したという結果が残る
となってしまうのです。
これでは、本当に何のために勉強しているのか、分からないですよね。
そうではなく「知りたいと思ったから」とか「分かることが楽しいから」とか、そういった何らかの「自分なりの目的」がないと、勉強する意味は永遠に見つからないのです。
そして、何らかの目的を持ち、それを達成するために、勉強という手段をとることになる、という流れが「能動的な勉強」といえるのです。
何を目的にするか?
ただ、必ずしも目的がある人ばかりでもないと思います。
そういう人の場合「目的がないから勉強しない」なんて事にもなりかねないです。
もちろん、それも1つの答えだとは思います。
しかし、大人たちはよく「とりあえず勉強はやっておいて損はない」とか「知識は人生を豊かにする」なんて言って、説得を試みようとしたりします。
けれど、そういう説得は、結局後になってわかることであって、結果論でしかないのです。
では、「目的を持った勉強」をするための方法はあるのでしょうか?
実は、この目的というのは、非常に簡単なようで、ものすごく難しいテーマだと感じています。
その理由の一つとしては、僕たちの住む現代の日本が「学歴社会」であり、勉強が就職と密接な関係にあるからです。
学歴社会とは、簡単に言えば、テストの点数が高くなるほど学歴も高くなり、職業選択の幅が大きく広がる、という仕組みです。
逆に言えば、テストの点数が低ければ、当然学歴も低くなり、選べる職業が少なくなってしまうのです。
そうした学歴社会によって、「ただ自分が好きだから学ぶ」というシンプルな目的を持ちにくくさせているように感じます。
そうなると、「勉強は嫌だけどしなければならない」とか「将来のために勉強しなければならない」というような「義務」となってしまうのです。
そういった義務感での勉強というのは、たとえ「能動的」であっても、苦痛となってしまう事もあるでしょう。
さらには「本当は好きな分野があるけれど、就職や試験には関係ないから…」といって、本来好きだった分野も「無駄」だと切り捨ててしまう場合もあるでしょう。
そのせいで「目的」を見出すということが、非常に難しいものになるのではないかと、僕は考えているのです。
(あるいは、「本当に目的がない」という人もいるかもしれませんが、そういう方の対処法はまた後述します。)
勉強は手段の1つでしかない
では、ここで「目的」について、僕なりの意見を述べていきたいと思います。
僕は、子供のころ、大人たちが「将来困るぞ」などという脅し文句で「勉強の大切さ」を解くのが大嫌いでした。
また就職先が学歴によって変わるという世の中も、僕は非常に嫌でした。
ただし、僕も大人となった今の立場としていうならば「将来、選べる就職先を増やしたいならば、テストの勉強はした方がいい」というのが1つの答えです。
学歴社会ということを考えれば、「テストで高い点を取ること」が就職先に直結するのは事実なのですから。
ただし、必ずしもテスト勉強だけが全てではないのも事実です。
なぜなら、テストの結果によって学歴や就職先が手に入ったとしても、それ以外のものを手に入れる手段にはならないからです。
例えば、今回のテーマである「勉強の意味」なんてものはテストに出ませんし、その答えは教科書にも載ってはいません。
仮にテストの結果によって高学歴、高収入を手に入れたとしても、やりたくない事ばかりやらされては、その人生が幸せかどうかも分からないのです。
もちろん、「高い学歴を得ること」や「大企業に就職する」という目的も1つの答えですし、僕も「お金」はものすごく大事だと思っています。
しかし、もしこれを読んでいるあなたの目的がそうでないならば、自分が何を求めているのかをまず考えたうえで、あとから「手段」を考えていけばいいのではないか、と僕は思います。
目的の探し方
では、「全く自分なりの目的が分からない!」という人はどうすればいいのでしょうか?
参考になるかは分かりませんが、僕の経験を交えながらお話したいと思います。
生きるための勉強
実は僕も、勉強する意味どころか、生きている意味すらも分からない時期もありました。
日常的にも嫌なことばかりで、将来や就職をイメージしても真っ暗で、楽しさが見出だせず、考えたくもありませんでした。
そんな風に暗い日々を過ごすうちに、勉強や学校がどんどん嫌いになり、ついには高校を中退した経験もあります。
中退した直後は何をする気もないし、ただダラダラと過ごした時期もありましたが、目的が全く存在しない日々は苦痛そのものでした。
ただ、そんな僕にも、実は根源的な目的は存在していました。
目的という具体的なものではなく、もっといえば「本能」に近いものだったのかもしれません。
それは「生きたい」という目的です。
僕は、今すぐに死にたくないし、生きたいから生きている、ただそれだけということに、ある時気づいたのです。
しかし、生きるためには何よりお金を稼いだり、ご飯を食べなければ生きていけません。
そうすると、必然的に「就職しなきゃ」とか「働かなきゃ」という手段をとる必要が出てくるのです。
けれど、「就職」するためには、やはり学歴は必要不可欠なものでした。
肉体労働や学歴不問の職業もありますが、それだと非常に職種が限られてしまうのです。
しかし、たとえ高学歴でなくても、「高卒」であるだけでも可能性は大きく広がるのです。
そして、僕は高校を中退してしばらくして、「このまま学校に行かないと無職になってしまい、生きていけない」という現実を思い知ったのです。
そして、生き延びるためにも、両親に相談して、何とか別の高校に入り直させてもらうことになりました。
こうして僕は、「生きるため」というシンプルな目的を持ち、その手段として「就職できる程度の勉強」を自ずとすることとなったのです。
その結果、学校を卒業した後は、運よくその辺の会社に就職することが出来ました。
これが、僕が初めて行った「能動的な勉強」だったのです。
好きなことをするという事
ところが、就職してしばらくした後、また違う目的が生まれました。
それは、「どうせなら、もっと楽しく明るい生き方をしたい」という目的です。
というのも、就職は出来ましたが、「ただそれだけ」だったのです。
毎日嫌な気分で会社に行って帰るだけでは本当につまらな過ぎて、生きてても全然楽しくなかったのです。
かといってやはり死にたくなかったので、「どうせなら、もっと楽しくいきたい」という目的が初めてわいてきたのです。
そのために、自分自身を見つめなおし、改めて自分の人生に向き合う事にしました。
そこで具体的に、何をしたかといえば、ビジネス書を読み漁ったり、投資などを勉強し始めたのです。
「どうやったら仕事がもっとうまくいくか?」とか、「お金ってどれくらいあればいいんだろう?」とか、今よりももっと上向きにできる方法を調べ始めたのです。
ただし、これは本来なら「しなくてもいいはず」の勉強です。
職に就ければ、そこでのらりくらりと生きていくという事も出来たでしょう。
しかし、「自分にとって好きな事」だったり「充実できる方法」を考えなければ、人生を無駄に持て余してしまうことになるという事に気づいたのです。
だからこそ、僕は生きるためだけではなく、ビジネスというものに興味を持ち始め、初めて「楽しい」と思えることを探そうとしたのです。
それからは仕事に楽しさを見出したり、「自分でも何かやってみたい」という目的が生まれたのです。
その結果、僕はブログを書くことを思いつき、そのための勉強をしたり、書籍を読んだりするという、手段が生まれました。
今では会社もやめて自由業となり、こうしてブログを書いてお金を得て生活もできるようになりました。
テスト勉強はほとんどしなかったので、世間でいう低学歴ではあっても、僕は自分で手に入れたこの生活を気に入っているのです。
つまり、「能動的な勉強」によって、自分の目的を達成できたというお話です。
願望から出発する
以上が、「勉強する目的」の見つけ方のお話になります。
そして、これは僕に限った話ではないと思います。
誰もが生きている以上、きっと「今すぐ死にたくない」「なるべく長く生きたい」という願望は持っていると思います。
そう考えると、「生きるために何らかの勉強はした方がいい」という結論に至るのではないでしょうか。
それを出発点として考えると、「他にも○○したい」という新たな願望が生まれるかもしれません。
すると、その目的を達成するための手段として必然的に「勉強」が生まれるはずです。
そして、それはただのテスト勉強ではなく、「自分の人生を生きるための勉強」が始まっていくと、僕は思うのです。
というわけで、自分語りが長くなってしまいましたが、以上が、僕の考えた「目的の探し方」でした。
ただ、もし、このお話が参考になられければ、力が及ばず申し訳ありませんとしか言いようがありません。
勉強の意味 終わりに
さて、以上が僕の考える「勉強の意味」についてのお話です。
学歴社会である以上、勉強というのは、人生にもかかわってくるので、少しおおげさな話になってしまったかもしれません。
また、この手の質問に対し、「好きなことを勉強したら?」みたいな言い方の人もいるかもしれませんが、「じゃあ、それでテストの点が下がったり、就職失敗したらどうすんの?」という反論も容易に想像できます。
「好きなことを勉強してたせいで、就職もできなくなり、無職になってお金がない」なんてことになったら目も当てられません。
もちろん、好きなことを勉強するのはいいですが、「自分はどう生きたいか」を、多少なりとも考えることも大事だと思います。
その際、自分にとって学歴や地位や収入が、どれほど重要な価値を占めているのかを考えた上で、何を学ぶか、という逆算をした方がいいのではないかと思います。
また、特にこだわりがなければ、とりあえず「学んでおいて損はない」の精神で、ひたすら勉強に打ち込むというのも正攻法だと思います。
そこから後になって「この知識が、この職業に活かせる!」みたいな結果論でもいいと思います。(というか、実はこういう人の方が多いのかもしれません。)
逆にもし、「どんな仕事でもいいや」となれば、勉強せず、学歴が必要なさそうな仕事先を選べばいいだけの話だったりします。
(とはいえ、どんな仕事であれ、何かしら学ばないといけないことは多々あるでしょうが。)
ただ、今回僕がお伝えしたいのは、勉強に限らず、目的もなく「義務感」でやっていると、本当にやりたいことを見失い、「何のために自分は○○をしているのか?」という疑問は無数に湧いてくるだろう、ということです。
そもそも人生にそんな決まりきった目的はなく、自分で決めてもいいのではないでしょうか。
そこで、初めて目的を持った時、おのずと「これをした方がいい」という自発的な欲求が湧いてくると思います。
そうなれば、「やらされていること」に意味を求めて右往左往するのではなく、「自分はこれをしたい!」という目的を実現する方にエネルギーを注げると思います。
そして、受動的であろうと能動的であろうと、問題は自分の生き方に納得が出来るか、が大事だと思っています。
その自分なりの人生を模索するための方法こそが、勉強なのかもしれません。
というわけで、今回のお話は以上となります。
少しでも何かのお役に立ったと思っていただければ幸いです。