反出生主義とは「生れてきたことや人を産むことに否定的な立場をとる哲学的な立場」とされています。
調べてみた限り、こんな感じの主張のようです。
目的「人類は生きていると不幸になるから、なるべく緩やかに滅びましょう」
手段「そのために子供を産まないようにしましょう」
結果「そうすれば幸福はありませんが、不幸になることはないのです!」
発想としては、終末論に近いかもしれません。
(間違っていたらすみませんが、今回はそれを前提としてお話していきます。)
Contents
反出生主義はラスボス論?
反出生主義の目指すところは、「人類の根絶」だそうです。
一見すると、「戦争でも起こすつもりか?」と思ってしまいがちですが、そういった価値観とは大きく異なるそうです。
反出生主義の特徴としては、他人に強要することや、死を早めようとすることはないそうなので、基本的に人畜無害な方たちのようです。
「今生きている命は尊重する」という立場なので、あくまで「子供を作らない!産まない!」ことが基本理念というわけです。
そうやって、緩やかに人類がいなくなれば、この世から不幸がなくなる、という考え方なんだそうです。
ですので、ゲームのラスボスのように「私がこの手ですべてを無に帰す!!」みたいな過激な思想ではないという事です。
ただ、思想そのものだけで考えれば、ゲームキャラで言うところの、FF10のシーモアや、真・女神転生3における氷川のような存在に近いと思います。
そんなゲームの敵キャラたちが求めるのは「悲しみもない、その代わりに何もない静寂の世界」という、まさに「反出生主義」に近いものがあります。
ただ、僕はリアルではその考えを持つ人に会ったことはないので、「そういう人もいるんだなぁ」程度にしか思っていませんでした。
世の中の主義主張とは、得てして「正しいor正しくない」などという単純な二元論で語れるような話ではないですからね。
しかし、最近この主張で気になったのが「子供に対する責任」というテーマです。
例えば、子供が生まれた際、その子供が幸せになれるという保証はありません。
しかし、生きていく上では悲しみや苦痛は必ず襲ってきます。
であれば、「最初から子供を作らなければ、不幸な目に合わせずに済むんだ」という点に関しては、子供を持つ親として考えなければいけないと思います。
そこで、今回は自分なりの意見として、反論的なものを書かせていただくことにしました。
反出生主義の価値観の違いについて
反出生主義に相対する意見として、まずは価値観の違いからお話していきます。
さて、僕はアラサーで、年齢的に言えば大人と言えばいいのでしょうか。
そんなアラサー男が子供を作るうえで、いろいろ不安はありました。
自分の人生、いいことばかりではありませんでしたし、嫌なことの方が多いかもしれません。
なにより、子供に対し、死の恐怖を味わわせるのが申し訳ないという風にも思っていました。
そんなことが頭によぎり、子供を作らないという選択肢も常にありました。
しかし、僕はある時、それは「自分の価値観で他人の人生を決めつけているという傲慢さ」だと感じるようになりました。
そもそも、僕は日々生きているうえで、自分が今幸せかどうかなどといちいち考えることはないのです。
何となく生まれたから生きてみて、すぐに死にたくないから生きているだけに過ぎないのです。
かといって、ただ生きているだけではつまらないので、自分なりに目的を見出したりして、楽しもうとしている次第なのです。
また僕は、人生は苦楽があって当たり前のものだと思っています。
それなのに常に「幸福にならねば!」という使命感を背負いながら、「不幸なことを遠ざけようとする」という目的を持って生きようとするならば、それ自体が生き辛さの原因になりそうな気がします。
それはまるで人生とは「幸福が当たり前」で、「不幸はあってはならない」という、思い込みに見えるのです。
なぜ人生は「幸福」でなければならないのか、あるいは「不幸はいけないのか」という問いに対する答えがないのです。
ですので、幸福じゃないから生きる意味がない、不幸だから子供を残さない方がいいという思想には、どうしても疑問符が付くのです。
その禍福の基準を作るのは誰で、誰が判断するのかという話になるからです。
また、「人間万事塞翁が馬」とか「禍福は糾える縄の如し」という諺にもある通り、物事の良し悪しというのは、後になってみなければ分からないことが多かったりします。
そして、その結果に対してどう意味づけするのかが個人の価値観の問題になると思うのです。
例えば、かつてひどい目にあった人が「振り返ればそれなりに幸せな人生だった」という発言をされたとします。
では、その人生を不幸なのか、それとも幸せなものなのか、他人が決めるべきことなのでしょうか?
ですので、「子供が不幸になる!」と考えるのは、自分の人生が不幸だという意味付けを他人や子供に施しているだけであり、別にそれがすべてではない、というのが僕の主張なのです。
ただし、もし僕が子供を作らないという価値観をもったままであれば、それでもよかったでしょう。
また、戦争や恐慌の起きている国や時代だったら、我が子に苦しみを味わわせたくない…なんて思ったかもしれません。
しかし、今の時代、この国に生きる僕はそうは思わなかった。ただそれだけの話なのです。
子供を持つという責任について
さて、ここからが本題となる「子供に対する責任」のお話です。
僕としては、子供を作る自由があったとしても、好き勝手に作ればいいわけではない、とも思っています。
ヨチヨチ歩きの子供に「あとの人生は自分で決めろ!」というのは無責任としか言いようがないからです。
ですので、子供を作ったからには、ある程度の責任は覚悟しないといけないと思うのです。
金銭面はもちろん、教育、衣食住も基本ですが、それ以外にも負う責任はあるのではないかと思います。
僕なりに思う責任の1つとしては、月並みではありますが「自立できるように促す事」です。
では、それで本当に子供を作った責任が取れるのか?という話をしていきます。
子供を作るのと、子供が生きるのは違う
ここで重要なのが、親が子供を作る自由と、子供が自分の意思で生きる自由は、それぞれ責任が異なるという事です。
まず、子供が「生まれた」という責任の所在は、まぎれもなく両親のものになります。
しかし、「生きる」という選択をするのは、子供自身の意思であると僕は考えています。
確かに「生まれた」事は取り返しのつかない事でもあり、その責任は取れないかもしれません。
「本当は、生まれてきたくなかった」と言われてしまえば、僕はただ謝る事しかできません。
しかし、そうなると次の疑問が発生します。
それは、その子供「未来」の責任はだれのものになるのか、という点です。
例えば、世の中には自ら命を絶つ人もいますが、僕はその行為を否定しません。
本当に自分の子供から「もう生きたくない」と言われてしまえば、残念ながら僕にそれを止める権利はないのです。
もちろん、そうならないように務めるのが僕の考える責任のとり方なのですが。
では、そうではなく、子供が「今後も生きていく」ことを選んだ場合はどうでしょうか。
親がすべて「子供の責任を取り続ける」ことが最善なのでしょうか。
もし子供の責任がすべて親のものだったら
もし「親がずっと責任を取らなければならない」場合だったら…。
そうなれば、親は一生子供の面倒を見なければならないことを意味します。
しかし、面倒を見るといっても、それは簡単なことではありません。
なぜなら、親の能力にも限度がありますし、親のほうが子供よりも早く死ぬ可能性のほうが高いからです。
もちろん、親が死んだ後でも生きていけるような財産を築く、という財力があれば別かもしれません。
しかし、もし子供が犯罪を犯したりすれば、それはもはや親が背負えるものではなくなり、子供自身が裁かれるという最悪の結末を迎えるのです。
そうした結末を回避するには、親は「子の自由を奪う」という選択が生まれます。
「親が責任を取らなくてもいいように見張る」わけですから、子供の行動を常に管理しなければならなくなるからです。
ただし、それは子供にとっては「自由のない人生」になるという事です。
もちろん、子供自身がそれを望むのであれば、「親が管理し続ける」という道もあるでしょう。
けれど、それが本当に正しいかどうかは分からないのです。
むしろ、僕は、子供がそうならないように育てることもまた「責任」だと思うのです。
僕としては、制限や管理をするよりかは、子供が自分の意思で何かを選択する強さを持ってほしいと望んでいるのです。
自立を促す事の意義
自分勝手かもしれませんが、僕は自分の子供に対し、「自分の意思で生きて欲しい」と願っているのです。
子供にとっての自由と未来は、僕なんかが管理や干渉せずとも、すべて子供のものにしてあげたいのです。
そして、その責任の管理は多少なりとも、子供に任せられるようになって欲しいのです。
実際、僕自身も、そんな風に折り合いをつけて、これまで生きるという選択をしてきました。
親に干渉されたくないですし、自分の意思で僕は生きているのです。
そして、我が子が困ったときや悩みがあったとき、助けを必要にされたときは僕のすべてを捧げるつもりなのです。
ただ、もしいつまでも「親のせい」にされた場合、それは僕の教育の敗北であり、その責任も負う覚悟です。
それで責任が取れるのかと言えば、残念ながら僕にはわかりませんし、子供が決める事になるでしょう。
もちろん、将来的に自分の子供が反出生主義という立場をとったとしても、それは僕が否定する権利はないのです。
出生主義者としての責任
また、親であり、「出生主義者」の立場としての責任はもう1つあります。
それは、これから生まれてくる子供たちを肯定する事です。
反出生主義とは、いわば子供や未来の人々を否定することを意味します。
けれど、僕が子供を作ったという事は、これからの人類の未来を存続させようとする立場をとることとなります。
その時、自分が生きている間にできる事は何かを考え、これからを生きる子供達にとって少しでもプラスになる行動を取っていく必要があるのです。
それこそが、親であり、「出生主義」という立場に立つ僕の責任だと考えているのです。
・・・。
などと、何だか立派なことを書いてしまいましたが、僕にも自分の自由は存在していると信じています。
なので、子供もとてつもなく大切ですが、それとは別に、自分の人生を謳歌させていただく気は満々なのです。
子供を作るのは親のエゴ?
さて以上で、僕の書きたいことは書かせていただきました。
とはいえ、これは僕自身が勝手に感じている責任であったり、意見であるので、その見解は様々だというのは重々承知であります。
ただ、せっかくここまで書いたので、ついでにもう1つだけ反論しておきたいことがあります。
それは、「子供を作るのは親のエゴ」というよく言われる文言についてです。
確かに、子供を作ったのは僕自身のエゴであり、否定はしません。
かといって、反出生主義のように「不幸がない方が人類のためだ!」などと考えるのは、それもまたエゴではないかと思います。
それは、ただのメサイアコンプレックスとしか思えず、「あなたのためを思って~」などといって我が子を自分のモノとして扱うような傲慢な親とそう変わらないのです。
つまり、子を持とうが持つまいが、人間がエゴであることには変わりなく、エゴなんて言葉が使われている時点で的外れだと僕は思うのです。
子供を作らなければエゴイズムから卒業できるとでもいうのでしょうか?
過激な反出生主義に対する疑問について
ついでにもう1つ。
僕は反出生主義という思想は「他人に強要しない事」や「自己完結」という面から、どこか穏やかさを感じていました。
ところが「反出生は正しい」と公言してしまうような、一部の過激的な思想を持つ方に対して、疑問があります。
それは、反出生の方は、自ら死を選ばずにちゃっかりと「自分の人生は全うする」という主張についてです。
その間の人生、誰の手を借りて生きるかと言えば、他でもない「出生主義者」たちではないでしょうか?
例えば、年を取った老後では、その生活の面倒や生活を支えるのは誰なのでしょうか?
それは言わずもがな、出生主義から生まれた「子供たち」になるはずです。
にもかかわらず、この世を呪う極端な「反出生主義」の方は、そうした「出生主義者」たちの営みをあざ笑う事があります。
それはつまり、「誰の子供の手を借りない」という生き方をされるのでしょうか?
今後未来の子どもたちが生産するであろうモノも、彼らが将来納めるであろう税金で賄われる年金も社会保障も、一切受け取らないつもりなのでしょうか。
それに対し「YES」と言える人だけが、出生主義を非難する権利があると僕は思います。
けれど、その出生主義者による恩恵を受ける気マンマンでいる時点で、非難するのはお門違いもいいところではないでしょうか…?
その件についてどう思われるかは、僕は疑問なのです。
僕としましては、今の時代のことは今の時代に生きるものの視点でしか考えられないとしか言えませんし、僕は子育てに向き合っていくだけなのです。
(ちなみに、障害のリスクを背負ってまで子供を産むなという意見もたまに見受けられますが、それは反出生主義者ではなく、「差別主義者」がテーマになるので、今回は扱いません。)
反出生主義のメリットについて
ただ、ここまで書いておいてなんですが、僕は「子供を作らない」という主張を、100%否定しているわけではありません。
例えば、世の中には僕なんかの想像を超える辛い思いをしている人もいるでしょう。
そういう人を踏みにじって「子供を作らないとかおかしくない?」などと貶める行為も、ただの価値観の押し付けでしかないと思っています。
また、僕は人口が増えすぎることに危機感を覚えているので、むしろ「反出生主義」の人は一定数必要ではないかとも思っています。
というのも、今後の食糧難やエネルギー問題を考えると、人口が増えすぎるのは恐怖でしかないからです。
そこでもし、自発的に子供を作るのをやめる人が増えれば、むしろ今後の世の中においてメリットだったりします。
他人に強要しないというのもありがたいところであり、作りたい人は作れる、作りたくないなら作らない、という住み分けが可能という点はwin-winといったところでしょうか。
ですので、主義主張は違っても、本来はお互い干渉する必要も、特に言い争う必要もないはずなのです。
しかし、残念ながら僕は救いの神でもなければ、人類を憂うほど偉くも賢くもないので、「反出生主義」に賛同することは出来ない、というだけの話です。
反出生主義について思う事 最後に
さて、最後になりますが、「反出生主義」は古代ギリシアの時代からある思想だそうです。
ソポクレスという紀元前496年-406年頃の時代を生きたとされる悲劇詩人は、以下の文面を残しました。
この世に生を享(う)けないのが、すべてにまして、いちばんよいこと
生まれたからには、来たところ、そこへ速やかに赴くのが、次にいちばんよいことだ。
『ギリシア悲劇Ⅱ ソポクレス』(ちくま文庫)
「コロノスのオイディプス」高津春繁訳 より
これ以外にも、「反出生主義」の出どころを見てみましたが、結局のところ「定義は曖昧」だと感じました。
それぞれが自分なりの「オリジナルの反出生主義」があり、様々な解釈があるのでしょう。
ただし、「出生主義」を唱える僕も、それは同様です。
色々書きましたが、結局は僕は子供を作ったことを正当化したいだけです。
生きるという事や子供を作るという事は、どこか後ろめたさもあり、全肯定することはなかなか難しいことだと思います。
かといって、全否定もすることもおかしいので、どちらも正解であり、不正解の面があるという事しか言えないのです。
少なくとも古代ギリシアから続くテーマに対し、まだ答えが出ていない現状を見れば、あれこれ考えたところで、今の僕たちには分かるとは到底思えないのです。
だからといって思考をやめるのではなく、「自分はこう思う」と考え、自分なりの答えを出すこと自体が大切なの事なのかもしれません。
ただ1つ言えるのは、僕たちが今こうして考えて生きていけるというのは、これまでに様々な時代の人間の歴史を経て、命が繋がれてきた結果だという事です。
(もっといえば、まだ「人間」ですらなかった時代から続く命とも言えますが。)
僕はそうした生命の連鎖には偉大さや畏怖のようなものを感じ、止める気はサラサラないですし、止めようと思ったところで止まるものでもないと思います。
とはいえ、日本では人口が減少しているように、あえて「子供を作りません!」みたいな決意をしなくても、それはその時代の風潮や環境によって左右されるものなのではないかと感じます。
もし、人口抑制の風潮になれば、「反出生主義が正しかったんだ!!」などと簡単に手のひらは返されるかもしれませんが、それも想像の域を出ないのです。
何にせよ、最終的にどちらが正しいのかの答えは、その先の時代の人類にしか分からない事でしょう。(もしくは永遠の謎のまま終わるかもしれませんが。)
僕としては、人間という種族が滅亡するよりも、少しでも前向きに成長し、ちょっとした高みに到達し続けていく事を願っています。
というわけで今回のお話はおしまいとなります。
みなさまの何らかのご参考になれれば幸いです。
…それと、今回は「責任」というテーマに触れましたが、「自己責任論」についての記事も書いております。
興味がおありでしたらお読みいただけると幸いです。