今回は、「論破」における問題点(デメリット)の提起と、改善策について考えてみました。
論破とは何か?
そもそも論破とは、相手を言い負かす事です。
例えば、気にくわなかったり、自分と異なる意見を聞いたりした時に、「それはおかしいでしょ!少なくとも俺の方が正しいよ」と意見をぶつけるわけです。
その際、自分の正当性を訴える為には、論理的思考を使い、「どうやったら相手の弱点を突けるか?」とか「相手の意見の間違っている事は何か?」を考え、相手を言い負かせば「論破」となります。
簡単に言えば、「口げんかに勝つ」という事です。
論破のメリット
では、「論破」にはどんなメリットがあるのでしょうか?
それは例えば、「ゲームに勝った時」と同様の喜びを得る手段となると思います。
思考という自分の武器を使い、文章を組み立てていく過程、そして出来上がった論理で相手と戦って勝利をおさめるという流れは、まさにゲームのようなものです。
また、賢い(と思われる)人の意見と戦って、もし勝てば「自分の方が優れている!」と自尊心を満たすことにもなるでしょう。
さらには、勝つことによって「自分の方が格上である」事を周囲にアピールし、何かと物事が自分優位に働くようにもなるかもしれません。
よって、論破のメリットは、戦いと勝利によって得られる喜びと、自尊心の獲得と、優位な地位の獲得といったものが挙げられるでしょう。
論破の意味や価値について
しかし、その論破によって得られることは、どれほどの価値があるのでしょうか?
正直、論理的思考が出来る人ならば、やがてはそんな戦いをしている方がよほど辛い事に気づくような気がします。
確かにもし、自分が不当な扱いを受けている場合であれば、それを訴えるために「論破」は時として必要かもしれません。
そういう「防衛的」な使い方ならば、論破をすることに問題はないと思います。
しかし、それが「攻撃の道具」として使われてしまった場合、デメリットの方が多いので、その例をいくつか挙げていきたいと思います。
論破のデメリット① 時間の浪費
論破を目的にしてしまうと、そのために貴重な時間を消費してしまうことになります。
例えば、どうでもいい人間が気に食わない事を言っていても、いちいち相手をする必要はないはずです。
「関わらない」という選択肢もできるのに、あえて自分の時間を割くことにメリットはあるのでしょうか?
逆に、ある程度親しい間柄の場合ならば、論破するよりも、むしろ相手に理解や興味を寄せる思考になった方がより親密になれるのではないでしょうか?
つまり、「論破目的」よりも、まず最初に「自分にとっての本当の得は何か?」を考えることに、論理的思考を使った方がいいのではないか、という話です。
「負けるが勝ち」という言葉もある通り、本当の勝利とは、あえて戦わないという選択をする場合にも得ることが出来るのです。
論破のデメリット② 言葉の暴力になる可能性
論破するためには、論点をズラしたり、相手の人格や弱み、過去のことなども引き合いに出すこともあるでしょう。
ただし、それが行き過ぎてしまえば、議論や話し合いではなく、言葉の暴力にも似た行為とも取れるのです。
そこまでしてまで相手を叩きのめす必要はあるのでしょうか。
そして、そうやって他人を傷つけることで得た勝利は、果たして本当に誇れるものなのでしょうか?
ただ、これは倫理観の違いによるものだとは思うので、人情的でない人にとっては、あまり関係ないかもしれませんが…。
論破のデメリット③敵を作りやすいという事
論破をした側にとっては、勝利とは気持ちがいいものかもしれません。
けれど、キツい物言いをするということは、その分相手や周囲からの反感を買う事もあるでしょう。
たとえ自分が正論だと思った事だとしても、それが他人に認められるとは限らないのです。
むしろ、それが逆効果になり、仲間どころか敵を増やす場合もあるでしょう。
そのため、負けた側の報復としてイジワルをされたりと、別ところで損をする可能性も十分生まれるのです。
つまり、自分の地位獲得という目的が達成できず、かえって貶められたりすることもあるため、必ずしも論破することが自分にとって良い方向に動くとは限らないのです。
であれば、論破するよりも、まずは「相手の言い分を聞く」という選択も視野に入れてもいいのではないでしょうか。
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というわけで以上の3点が、論破のデメリットです。
メリットと、デメリットの視点で考え、「自分にとってどちらの方が得なのか」を考えれば、おのずと「論破の意味」は見えてくるのではないでしょうか。
論破以外の方法
また、もしも相手の意見に対して異論を述べたい場合、何も論破することがすべてではありません。
「他人と優劣をつける」のではなく、「他人との合意を得ること」という終着点もあるのです。
それは例えば「討論」や「議論」や「対話」など呼ばれたりします。
例えば、「討論」とは、論破とは違い「相手を言い負かす事」が目的ではありません。
討論の目的は、「第三者を説得する事」にあります。
論破はあくまで「自分」が主体ですが、討論とは最終的に第三者によって「どちらの意見を採用するか」が決められるため、周囲に大きな影響を与えることもあるのです。
結果的に相手を論破することになったとしても、公的に意義のある行為が討論なのです。
また、「議論」においても、「お互いの共通の目的は何なのか、何を目指しているのか?」という議題にすれば、相手を負かすよりも「自分と相手が歩み寄れる方法」という有意義な結論も導き出すことも可能です。
さらに「対話」というのは、お互いが真っ向から否定しあうことはありません。
対話とは、競争ではなく「相手と分かりあう事」を前提としています。
他人の意見におかしいところがあった場合、否定するのではなく、質問を投げかけるという手段もあり、それこそが「対話」と呼ばれる行為なのです。
その質問によって、完全に相手の事を理解することは出来なくても、信頼関係を築くためには非常に有効なのです。
よって、論破という勝ち負けで決めるのではなく、「他人と歩み寄るための方法」として、異論や持論を述べることもできる、というわけです。
論破はショービジネスとして成り立つ
さて、ここまでで色々書きましたが、最後に論破のもう1つの側面にも触れておきたいと思います。
それは、論破合戦は注目浴びる手段になるという事です。
例えば、人目のつく場所、特にネットで論破合戦を展開すれば、人は野次馬のように関心を持つことがあります。
その際、相手を負かす姿を見せつけて、観客を楽しませる事が出来れば、ある種のショービジネスとして成り立つのです。
それは一定の人を満足させる行為にもなるので、そういう意味ではただの自己満足では終わらないでしょう。
例えば、テレビのコメンテーターによる辛口意見(今ではめっきり少なくなりましたが)もそうですが、そういった人は影響力を持つことがあるのです。
そうした明確な意図や目的があれば、単なる「論破目的」ではなく、また違う目的になるとは思います。
ただ、そういったショービジネスを展開しない限り、あえて論破だけに拘ったり、目的にする必要はないでしょう。
論破について 最後に
さて、以上が論破に対する僕の意見です。
論破がいいとかダメというわけではなく、まずは「自分にとって最も有意義な目的」を考えることが最も先決ではないか、というのが僕なりの結論です。
例えば、自分の身を守るならば、相手のおかしさを指摘することも時としては大切なのでしょう。
ただ、気に食わないからと言って、他人を延々と攻撃していれば、いずれ自分の周りは敵だらけになることもありえるのです。
それに、世の中には何を言っても無駄な人もいるわけですので、そういう人とはあえて戦わずに、逃げるという選択も視野に入ります。
また、攻撃や逃げるだけでなく、時には他人と歩み寄って、同じ問題を考えたり、解決していかないといけないこともあるでしょう。
ですので、僕たちは何か1つに偏るのではなく、戦う場合、逃げる場合、歩み寄る場合など、さまざまな状況によって方法を変えていくのが適切ではないでしょうか。
ただし、歩み寄る場合に気を付けたいのが「だれかれ構わず、人はみんな分かりあえる」という綺麗ごとは、今の人類には早すぎる思想である、という事です。
結局、討論だの議論だの対話だのをしても、「完全に相手と分かりあう」ことは不可能だからです。
自分の気持ちは自分にしかわからないように、他人の気持ちを完全に理解することなんて、出来ないのですから。
むしろ「理解が出来ない」からこそ、僕たちは安易に人を傷つけてしまうのかもしれません。
かといって、「絶対に分かりあえないから、もう戦うしかない!」というのも、論理的思考が出来る人の発想ではないと思います。
ですので、僕としては出来る限り他人と協力したり、目的達成や思考の柔軟性を磨いたりするために、日々論理的な思考を使っていきたいと思います。
というわけで、今回のお話はここまでとなります。
みなさまのご参考になれば幸いです。