生きていると、ふと「この人生に意味はあるのだろうか」と考えることがあると思います。
その中で不安になったり、悩むこともあるかもしれません。
そこで今回は、生きる意味をテーマにお話ししていきたいと思います。
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生きることに意味はあるのか?
結論からいえば、生きている事に、絶対的な意味などはない、というのが僕の意見です。
なぜなら、確実な答えは存在しえず、その意味をハッキリと答えられる人間など存在しないからです。
もし生きる事に、絶対的な意味があるのなら、「人間は○○しなければならない」というハッキリとした決まり事があるはずです。
けれど、そんな決まりごとは存在しないのです。
だからこそ、生きるも死ぬも自由であり、そこに意味など存在はしないと僕は思うのです。
人生に意味があるという証明はできない
また、歴史に名を残したい偉人たちも、絶対的な生きている意味があったかといえば、僕と同じ事が言えます。
もし、偉人たちのように、功績を残す事が人間の意味だったとすれば、「世の中のすべての人間は、功績を残さなければならない」という義務を背負うことになります。
そうすると、「功績を残さない人間は意味がない、よって義務を果たせない人間は人間ではない。」
そんな定義になってしまうのです。
果たしてそれでいいのでしょうか?
いいえ、仮に人間の定義があるとしても、それは人間が作ったルールに過ぎず、真理なのではないのです。
だから、どんなに功績を残そうとも、僕たちは同じ人間なのです。
生きる意味がなくてもいい?
ただ、ここで誤解しないでいただきたいのが、あくまで「絶対的な意味はない」という意味なのです。
つまり、相対的にはあり得る、という事です。
簡単に言えば、「自分がこれに意味がある」と思えば、それが生きる意味になりえるのです。
心が何かを感じたままに、そして感じた事に意味を感じられれば、それこそが自分だけの生きるの意味なのです。
だから絶対的な意味なんかなくても、「自分がここにいるだけでいい」と思えれば、それだけで生きる理由となりえるのです。
もちろん、相対的なので、人によって千差万別であり、答えもバラバラになるでしょう。
だから、人の数だけ意味が存在し、もし功績を残すのが意味だと思うのなら、そうすれば良いのです。
しかし、もしそれでも納得いかないようであれば、逆に「絶対的な生きる意味」を考えてみましょう。
意味を求めるという事は
さて、絶対的な生きる意味があるとすれば、何でしょうか?
しかし、それを考えることは、残念ながら、とてつもない虚しさにつながります。
なぜなら、絶対に見つからないモノを探すことになるからです。
意味を求めてしまえば、「今自分のしている事が、本当に意味があるのか」と常に疑わなければいけない事になるからです。
例えば、僕たちの人生の目の前には、常に勉強や仕事が付きまといます。
そこに意味ばかり求めていると「果たしてこれが、いったい何になるのか?」と言った事を考え始めます。
学校で勉強して、卒業したら会社に勤め、仕事をし、その先にはまだ見ぬ未来があり、やがて確実に死に至る。
そんな人生の中に果たしてどんな意味があるのでしょか?
また、時には娯楽に勤しんだりや休息の時もあるでしょう。
しかし、その時にも「この時間や行為に意味はあるのか?」と考える事になります。
そうやって、今目の前には楽しいこともあるはずなのに、それら全てを疑問によって殺してしまうのです。
朝起きて、朝食を取り、学校や職場に行き、帰宅し、明日もまた同じような日々がずっと続く…。
その行為の繰り返しに「意味があるのか?」と考えれば、恐らく答え見つかる事は永遠に来ないでしょう。
そうした疑問の連続は、やがては虚しさに変わっていき、今この時を純粋に楽しむことが出来なくなるのです。
本当は、美味しいご飯を食べたり、笑ったり泣いたり喜んだりと、何かしら感情が揺れ動いているはずなのにです。
そうした感情の動きすらも無視して、意味を求める人生の何が楽しいといえるのでしょうか?
ましてや、そんな日常の中に、本当に「絶対の意味」が見つけられるとでもいうのでしょうか?
よって、「絶対的な生きる意味」を考えるというのは「虚しさ」しか生まないのです。
生きている意味を人間が知る時は来るのか
さらにいえば、この宇宙には、人間だけではなく、動物や星々が存在しています。
では、それらが生まれたことに意味はあるのでしょうか?
その結論は「人間には分からない」のです。
いくら考えても、調べても、ビッグバンが起きる前の宇宙の誕生や歴史は誰にも分からないからです。
なぜビッグバンが起きたのか、なぜ宇宙が始まったのか、なぜ星が生まれたのか、それを解き明かさない限り、人間、ひいては生物が生きる意味などは到底見つかる事はないでしょう。
逆に言えば、宇宙が誕生した事にはハッキリとした理由があり、そこに星が誕生した理由が分かり、そこで生命が誕生した理由までが判明していれば、そこに人間が生きる意味も見つかるかもしれません。
しかし、それは人類や地球が滅ぶ前に解明されるのか分からないし、やはり絶対的な意味を考えるのは不毛なのです。
もちろん、究明すると事に価値や意義はあるかもしれませんが、究明されなくても生きていく事に何の支障もないのです。
他人委ねてはいけない
また、世の中には「他人から意味を与えて欲しい」と願う人もいます。
例えば、「芸能人やアイドルのように、みんなに求められたい!」「人から愛されていたい!」と願う人たちです。
生きている虚しさに苛まれ続けると、僕たちは「他人に依存」しがちなのです。
ただし、もし、そうやって他人に自分の意味を求めているのなら、やはりそれも虚しさにつながるでしょう。
なぜなら、常に他人の目を気にし、他人のご機嫌を取り、嫌われないように自分を偽り、承認してもらおうと、あらゆる手で注目を浴びる…、そんな人生になりかねないからです。
そういう人生は、一時的には満足できるかもしれません。
でも、他人なんて気まぐれだし、常に自分を見てくれているわけがありません。
それに、他人の為に必死に頑張ったところで、他人が期待通りの反応をするとは限らず、苦労が報われるわけではないのです。
よって、他人から意味を与えてもらおうというのは、虚しさ、あるいは苦しみを生むのです。
生きる意味はなくてもいい
そうやっていちいち「生きる意味」なんてものを求めなくても、生きることは出来ます。
むしろ、生きる事にそもそも意味が必要なのでしょうか?
もし、必要であれば、それを知らなければなりません。
けれど、意味なんかなくても生きられるのであれば、最初からいらないのではないでしょうか?
でも、かといって漠然と生きていてはつまらないし、ただ死に向かっていくだけでは、それこそ虚しいでしょう。
だからこそ、自分で人生に意味を見出せばいいのです。
見出すというよりも、「気付く」と言い換えてもいいかもしれません。
今日その日の出来事、目の前の人間関係、ごくごく平凡な中で感じた幸せ。
あらゆる全てに「生きててよかった」と思える瞬間に気付くことが出来ると思います。
それで充分ではないでしょうか?
もしそれを他人が無駄な人生だと決めつけても、自分に意味があると思えば、それでいいではありませんか。
つまり「生きる意味はなくてもいいけど、もし意味が欲しければ自分で作り出すしかない」という事です。
それこそが、今回の結論です。
生きている意味なければ作ればいい
さて、最後になりますが、僕自身も学生時代に「生きる意味」を考えた時、虚しさで押しつぶされそうになった経験があります。
世の中には僕より優れた人間はいくらでもいるのに、「ダメな僕に価値なんかあるのだろうか?」と考えたのがきっかけでした。
僕なんていなくても、世界に影響はないし、なんなら死んだって世の中は変わらないなら、生きている意味なんてないじゃないか、と考えるようになったのです。
僕は、それを認める事が中々できず「それでも僕は生きている意味があるんだ!」と、必死に考え続けていたのです。
だからこそ、何らかの手段で目立ってやろうとか、自分にしか出来ない事をしてやろう、といったアイデンティティを求め続けていました。
しかし、結局何かしらのアイデンティティを身に着けたからといって、やはり「死ねば一緒」と言うことに、ある時を境に気付いたのです。
ところが、僕は同時にある事にも気づきました。
「どうせみんな死ぬしかないんだったら、出来る事をやったり、楽しんだ方がいい」、という事にです。
僕たち人間は能力や寿命に差はあっても、「必ず死ぬ」という点では平等なのです。
もちろん、幼いうちに命を落とすような存在もあれば、見殺しにされるような存在もたくさんあります。
生きたくても生きられなかった命なんて、いつの時代にも無数に存在するでしょう。
けれど、それでも運よく生きることが出来ているならば、その時間を自分や生きている他の人間のために使わなければ、もったいないのではないでしょうか。
そうして、短い人生の中で、自分や周囲の人々や環境と少しずつ向き合い、時には折り合いをつけ、そうやって前に進んでいくしかないと思うのです。
少なくとも、僕はその行為を無駄だとは思わないし、むしろそれが生きる事だと思っています。
そして、そんな人生を前向きに楽しむ事が、いつしか僕の人生の意味となったのです。
というわけで、もし生きる意味で悩むのであれば、「死ぬこと」について向き合い、どうせ死ぬんだったら何をすればいいかという問いかけをすることが建設的である、というのが僕の至った結論なのです。
というわけで、今回のお話はここまでになります。
皆様の考えの一助となれば幸いです。