自己肯定感の低かった僕が、他人の不幸を喜ぶのをやめられた話

他人の不幸

僕は以前、他人の不幸を喜ぶような人間でした。

成功者と呼ばれる人間に対し、羨望と憎しみを抱き、「いずれ失敗すればいい」などと考えていたのです。

では、なぜそうなるかをネットで調べると、「自己肯定感が低いから」とか「嫉妬深いから」が理由なんだそうです。

それを読んで、僕は納得できるところがありました。

 

かつての僕は優れた他人に嫉妬し、自分を卑下しまくっていたのです。

ただ、僕はその一方で、嫉妬や卑下をする自分が嫌だったし、罪悪感や虚しさも感じていました。

 

そのはざまで揺れていた僕は、いつしか「このままではダメだ」とか「嫉妬をやめたい」と考えるようになりました。

 

そこで考えたのは、「どうやったらそんな状況から脱却できるのか?」という事でした。

ただ、それをネットを調べても、根本的な解決策が分からないからこそ、ずっと悩み続けていたのですが、年月をかけてようやく理解し始めてきました。

 

というわけで今回は、僕が考えた「他人の不幸を喜ぶ生き方と、それを辞める方法」についてのお話をしていきたいと思います。

 

他人の不幸を喜ぶ理由

さて、そもそも、僕が「他人の不幸を喜んでしまう理由」は何だったのでしょうか?

その理由は、「公平感を満たしたかったから」です。

 

例えば、世の中には僕よりも才能があるし、お金もあるし、顔立ちのいい人が大勢存在します。

僕にとっては、そういう人たちは何かしらの地位や名誉を獲得していて、好待遇の人生を送っているようにしか見えませんでした。

 

ところが、それなのに、僕は才能もないしお金もないし、顔立ちもいいものでもないし、ダメなところばかりなのです。

僕は、これに対してとてつもない「不公平感」を常々感じていて、「僕より優れている人間」が許せず、嫉妬をしていたのです。

 

だからこそ、僕は優れた他人の不幸を願う事によって、「公平性」を維持したかったのです。

優れた人が、その地位から転落することによって、初めて僕と同等の存在となり、ようやく公平感が満たされる、というわけです。

 

もしこの世界が公平だったら

そもそも、もし、世の中のみんなが僕同等の能力、あるいはそれ以下であれば、嫉妬しないで済むし、不幸を望むこともなかったでしょう。

そんな世界があるとすれば、それこそが「公平」であると言えます。

 

けれど、現実はそう都合よく作られてはおらず、いくら願っても僕の中の不公平感が是正されることはありませんでした。

勉強してもテストでは100点は取れませんでしたし、競技でも勝てる事はなく、何の成功も栄誉も収めたことがない…。

そんなショボイ人生にしか感じていなかった僕は、「不公平な世の中」に対し、やり場のない怒りを優れた他人にぶつけるしかなかったのです。

 

不公平感の克服の方法

では、どうやったら「不公平感」を克服できるのか?

僕が長年悩み続け、たどり着いた答えは至ってシンプルなものでした。

 

それは「他人を認める」という方法です。

僕に今まで欠けていたのは、まぎれもなく「他者へ感謝の精神」だったのです。

 

それに気づいたのは、もしこの世界が「自分一人の世界だったら」と想像したことがきっかけでした。

 

もし僕が1人だけの世界だったら

「他人さえいなければいい!」

 

そんな風に思っていたら、僕はある事に気づいたのです。

それは、この世界では、僕一人だけでは生きていけないというごく当たり前の事でした。

 

例えば、僕は1人で野菜の生産や、お肉の調達を行うことは出来ません。

また電気やガスを発生させる知識もなければ、火を起こす技術もないのです。

つまり、僕はたった1人では生きていけず、あっという間に死ぬのです

 

では、そんな僕がなぜ今日まで生き残れているのでしょうか?

 

それは他ならぬ、他人の存在のおかげなのです。

 

例えば、今日もどこかの誰かが野菜や肉などの食べ物を生産して、電気や水道を供給する人がいて、大勢の人がモノやサービスを提供しているからこそ、僕は生きていけています。

つまり、僕はこれほどまでに他人の力に支えらているのです。

 

しかも、僕なんかよりも優秀な人は、それだけ多くの人を救ったり、便利な生活を作ってくれているわけです。

イケメンな芸能人は、多くの女性に生きる活力を与えている事でしょう。

カッコいいミュージシャンは、人の心を打つ楽曲を提供してくれるのです。

 

そう考えると、他人に感謝やリスペクトはあれど、嫉妬する義理なんてありませんよね。

むしろ、嫉妬に苦しむくらいなら、他人を認めた方がはるかに楽になれる事に気づいたのです。

 

それが分かった時、僕の中から不公平感は少しずつ取り除かれていきました。

 

なぜ他人の価値を認められなかったのか?

では、なぜ僕は今までこの事に気付けなかったのでしょうか?

 

そもそも気づいたきっかけと言うのは、僕が社会人になって「自分が人の役に立っている」と感じたからでした。

前述の通り、何の才能もない僕は、学生の頃から「何をやってもダメな自分に価値はあるのだろうか?」と疑問を抱き、自分に自信がありませんでした。

社会人になりたての頃も、仕事で上手く行かないことばかりで、上司からのお説教ばかりを受けていたのです。

 

けれど僕はいつしか仕事を通して、「人から感謝される」という事を知り、「こんな僕でも役に立つ事が出来るんだ」と徐々に実感し始めていきました

 

さらに、僕は仕事を続けていくうちに、取引先の人やお客さんがあってこそ、自分の仕事が成り立つことが分かってきました。

そうしたお客さんもまた違うところで仕事をして、また別の人に感謝されて…と、そんな風に仕事は連鎖していくわけです。

 

つまり、公平だろうが不公平だろうが、そんなものは生きていく上ではあまり重要ではなかったのです。

 

自己肯定感を得るということ

そして、そんな生活の中で、僕はもう1つの大きなものを得ました。

 

それは「自己肯定感」を味わうということです。

「自分でも何かの役に立つ」と思える事は、まさに「自己肯定感」に他ならなかったのです。

 

かつて、人の不幸を喜んでいた頃の僕は、そんな事も分からず、常に目先の事しか考えられていませんでした。

日々のつまらない日常、嫌いな上司や先輩、やりたくもない仕事…。

自己中だった頃の僕は「お金を貰うために嫌々毎日の仕事を我慢しているだけ」だったのです。

そんな人生が楽しい訳ないですよね。

 

しかし、僕は仕事をすることによって、少なくとも誰かの役に立てるという事が分かり、やがて「自分には価値がある」と認める事ができたのです。

 

それから、僕は「もっと人の役に立とう」という意欲を持ち、こんなブログも始める事も出来るようになりました。

 

あまりお金にはなっていませんが、嫉妬するよりもはるかに楽しい事です。

決して成功者ぶるわけではありませんが、他人への嫉妬のエネルギーを、自分の成長へと使う事が出来た結果だと思っています。

 

とはいえ、少し気を抜けば、他人の不幸を望んでしまう自分が少し顔を出すこともあります。

それに100%常に肯定できるかと言えば、そうではありません。

 

それでも、自分の価値を見出すことが出来たのは、僕の人生で大きな収穫となりました。

 

自己肯定感の低かった僕が、他人の不幸を喜ぶのをやめられた話

さて、以上が、「自己肯定感が低かった僕が、他人の不幸をやめられた話」となります。

 

振り返ってみると、僕は「自己中心的な生き方」をずいぶん長くしてきたと思います。

それもそのはずで、僕は子供の頃から「誰かの為にやろう!」みたいなボランティア精神はほとほとかけていました。

 

それよりも自分が自分の為にすることが何よりの幸せであり、学生時代においては「娯楽や怠惰を貪る事こそが至高!」みたいな偏った思想を持っていました。

 

その結果、僕はどんどん他人に追い越されて行き、いつの間にか大差をつけられていたのです。

僕は、そんな現実がなかなか受け止められず、追い越してく他人たちに嫉妬すると共に、「僕って何やってるんだろう…?」という自己肯定感の喪失も味わいました。

 

その時もし、「それでも僕はこのままでもいいんだ!」と考えていれば、永遠にそうやってきたのだろうと思います。

けれど、僕は「このままでいいのか?」という「疑問」に変わった時、ようやく変化が訪れたのだと思います。

 

なので、もし僕のように「人の不幸を喜ぶのを辞めたい」と思っていらっしゃる方がいれば、今回のお話は参考になればと思います。

 

というわけで、今回のお話は以上になります。

みなさまのご参考になれれば幸いです。